今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日本の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。
【今日のことば】
「堪忍の二字を忘れるな」
--高橋喜代子
高橋喜代子は、ダルマ宰相・高橋是清の養祖母である。
是清は幕府のお抱え絵師・川村庄右衛門守房の子であったが、生後まもなく仙台藩の足軽の高橋家に里子に出され、2年後、その高橋家の養子となった。その高橋家で、ことのほか是清を可愛がり、またその教育に心血を注いだのが、祖母の喜代子であった。
喜代子は幼い是清に、ことあるごとに掲出の教えを言い聞かせた。慶応3年(1867)、是清が14歳で仙台藩派遣の留学生として渡米する際にも、喜代子はやはり「堪忍」の2字を強調する。が、そこはさすがに武家の烈女。同時に是清に短刀を手渡し、こう言った。
「これは祖母が心からの餞別です。これは決して人を害(そこ)ねるためのものではありません。男は名を惜しむことが第一だ。義のためや、恥を掻いたら、死なねばならぬことがあるかも知れぬ、その万一のために授けるのです」
このとき喜代子は是清に、切腹の作法まで教えたという。
もちろん、いまとは時代が異なる。当時、見も知らぬ異国の地へ、向かう者も送り出す者も、それだけの覚悟を持っていたということだろう。
祖母の教えと短刀を胸に、是清は、知らぬ間に奴隷として売られる波乱の留学生活を乗り越えて、明治元年(1868)に帰国する。
それから20年後、喜代子は是清に看取られて黄泉路へ旅立った。喜代子は長い間観音信仰をつづけていて、病気になっても毎朝の読経を欠かしたことがなかった。それが、死ぬ間際の2~3日は経を読むのも忘れうつろになっていた。その様子を見ていた是清は、喜代子が大切にしていた観音像を目の前に持ち出して、
「おばあさま、いつものことをお忘れあるな」
と言い聞かせた。すると喜代子はハッと起き上がり、是清に手伝わせて着物を着替えて合掌。口中でお経を唱えながら往生していったという。
顧みれば、是清は6~7歳で漢学塾に学び、家でも四書を音読して復習していた。このとき喜代子は傍らで縫物や何かの賃仕事をしながら紙に書き取り、後で是清が忘れたり間違ったりすると、その紙を示して直してくれた。
その紙片は、年老いた是清にとって、懐かしくも貴重な思い出の品となった。晩年の是清はしみじみとこう語っている。
「吾輩が、今日最も大切な家宝として、手匣(てばこ)の中に保存しているものがある。それは、養祖母が、塵紙に仮名文字で、吾輩の復習を指導してくれた時の、その紀念の紙片である」(『是清翁遺訓』)
真の家宝とは、こういうものをいうのだろう。
文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)などがある。2016年には、『サライ.jp』で夏目漱石の日々の事跡を描く「日めくり漱石」を年間連載した。