文/萩原さちこ
長浜城(滋賀県長浜市)を取材で訪れた折、市内にある鉄砲の里・国友(滋賀県長浜市国友町)へ立ち寄ってきました。国友は、和泉の堺(現在の大阪府堺市)や根来(現在の和歌山県岩出市)と並び、鉄砲の生産地として戦国時代から江戸時代末期まで名を馳せた町。1580(元亀元)年、織田信長・徳川家康軍と朝倉義景・浅井長政軍が激突した姉川のほど近くにあります。
1543(天文12)年8月25日、種子島の門倉岬に漂着したポルトガル人により日本に鉄砲が伝えられると、国友では早くもその翌年から足利将軍の命により鉄砲の製造が開始されました。この地域は古くから戦が絶えず、技術力のある鍛冶屋が多くいたのです。
国友の鉄砲が戦場で鮮烈なインパクトを残すのは、1575(天正3)年の長篠・設楽が原の戦いです。武田の騎馬隊を蹴散らした信長の鮮やかな“三段撃ち”は、よく語られるところでしょう。使用された3,000挺のうち、500挺が信長が発注した国友鉄砲だったとされます。
浅井氏滅亡後に長浜城を築き新領主となった秀吉も、国友の鉄砲鍛冶を厚く保護しました。
日本の合戦における主力兵器は鉄砲になり、国友ではかなり組織的に鉄砲の大量生産がされたようです。最盛期には70軒の鍛冶屋と500人超の職人がいたとか。
時は過ぎ、1600(慶長5)年の関ヶ原合戦、1614(慶長19)年の大坂冬の陣では、一貫目、500目玉筒の国友製大筒が使用されました。火縄銃は鉛の玉の大きさで細筒・中筒・大筒に分けられ、口径24mm以上のものが大筒です。
国友は江戸時代には天領となり、幕府の統制下に置かれました。興味深いのは、世が太平になるにつれ、装飾性の高い製品へと変化していくことです。鉄砲にも文化的な側面が育まれ、所持品としての価値が生まれたのでしょう。
江戸時代中期以降に社会的な安定と幕府の財政難により鉄砲の受注が減ると、それまで活気のあった鍛冶たちの組織に歪みが生じはじめます。幕府の御用鉄砲鍛冶職の家に生まれた国友一貫斎もその波に翻弄され、1811(文化8)には彦根藩の御用掛となったことで、7年にも及ぶ抗争に巻き込まれました(彦根事件)。
しかし、このとき江戸に滞在したことで、一貫斎は新しい科学や技術を習得します。もともと鉄砲の開発時に製作過程で苦労したのは、ネジの製作。つまり、一貫斎は腕のよい鉄砲鍛冶であると同時に、ネジづくりのスペシャリストだったのです。高い技術力を持った一貫斎は、江戸で触れた西洋の文明によって科学性を磨き、発明家へ。そしてやがて、日本初の反射望遠鏡を製作しました。
一貫斎はそのほか日本初の実用空気銃、懐中筆や玉燈などを発明し、“東洋のエジソン”と称されるようになるのです。
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以上、今回は鉄砲の里・国友についてご紹介しました。「国友鉄砲の里資料館」では、さまざまな鉄砲の種類やしくみ、
【国友鉄砲の里資料館】
■住所/滋賀県長浜市国友町 534番地
■開館時間/午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
■休館日/年中無休
■ウェブサイト/http://www.kunitomo-teppo.jp/
文/萩原さちこ(はぎわら・さちこ)
城郭ライター・編集者。小学2年生で城に魅せられる。
写真協力/国友鉄砲の里資料館、八巻孝夫