はじめに-島津義久とはどのような人物だったのか

九州をほぼ制圧し、「あと一歩で天下の外縁が塗り替わる」そんな地点まで迫りながら、島津義久(しまづ・よしひさ)は豊臣秀吉の前で剃髪し、戦を止めました。勝ち続けた強者が、最後に選んだのは「勝ち切る」ことではなく、家を残す判断だったのかもしれません。

本記事では、木崎原の大勝から九州制覇、そして秀吉の介入と降伏、その後の領国統治までを、史実に即して辿ります。

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、戦国の世に割拠する雄として描かれます。

島津義久
島津義久

島津義久が生きた時代

義久が主役となった16世紀後半の九州は、有力大名が割拠し、同盟と離反がめまぐるしく入れ替わる戦国そのものでした。

北九州には大友氏、肥前(現在の佐賀県と壱岐・対馬を除く長崎県)には龍造寺(りゅうぞうじ)氏、日向(現在の宮崎県全域と鹿児島県の一部)には伊東氏などが勢力を張っていました。

そんな中、島津氏は薩摩(現在の鹿児島県の西半部)・大隅(現在の鹿児島県の東半部)を基盤に、日向へ、さらに九州全域へと伸ばしていきます。

一方で畿内では織田信長、ついで豊臣秀吉が天下統一を進め、地方勢力に対しても「上洛」「和睦」などの政治的な選択を迫る時代へと移っていきました。

義久の人生は、地方の戦国大名が「全国政権」にどう向き合うかという問いと重なるかのようです。

島津義久の生涯と主な出来事

島津義久は天文2年(1533)に生まれ、慶長16年(1611)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。

改名と家督相続|薩摩・大隅の領国化を進める

島津義久は、天文2年(1533)2月9日に島津貴久の長子として生まれます。初め忠良(ただよし)、将軍・足利義輝から「義」の字を受けて義辰(よしたつ)、のちに義久と改名しました。

永禄9年(1566)に家督を相続すると、父の代から進めてきた薩摩・大隅の領国化をいっそう推し進め、周辺勢力を制して基盤を固めていきます。

九州制覇へ加速する

元亀3年(1572)、義久は日向の木崎原で伊東氏を大破。この勝利は、島津の勢いを九州規模へ引き上げる大きな転機でした。

天正5年(1577)には伊東氏を豊後に追い出し、翌年には大友宗麟(おおとも・そうりん)の軍を大破、日向を領国化しました。

さらに天正12年(1584)には島原合戦で龍造寺氏を倒し、天正14年(1586)には筑前(現在の福岡県北西部)方面にも勢力を及ぼして、九州をほぼ制圧するところまで迫りました。

羽柴秀長軍に敗れる…

ところが、天下統一を進める羽柴秀吉は、義久に大友氏との和議を勧めたものの、義久は「秀吉は由来なき仁、返書は笑止」としてこれを拒み、対決姿勢を示します。

そして天正15年(1587)、秀吉の大軍が九州へ。義久は日向根白坂で羽柴秀長の軍と戦い、敗北しました。

同年5月、義久は剃髪して「竜伯」と号し、川内泰平寺で秀吉に降伏。薩摩・大隅・日向諸県郡などの安堵を受け、同年7月には上洛しています。

九州制覇目前から一転して「服属」へ。この落差こそ、義久の生涯の最大の転換点だったといえるでしょう。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

家督をめぐる「その後」

降伏後の家督の扱いは、史料の見え方が一様ではありません。

一方では、以後弟の義弘に家督を譲ったとする見方があり、また別の伝えでは、のちに家久に家督を譲ったともされます。いずれにせよ義久は、当主として、あるいは後見として、家中を支える立場を続けたことがうかがえます。

文禄の役と島津家の苦境

文禄元年(1592)の朝鮮出兵では、義久は病気を理由に参加せず、義弘が兵1万を率いて出兵しました。しかし島津家は軍費の捻出に苦しみ、義久が薩摩・大隅・日向諸県郡の社寺領3分の2を徴して軍費に充てたとされます。

名護屋城跡の陣跡配置図でも米戸浦沿いに「島津義弘」の名が見える(赤枠で囲んだ部分)。

同年、肥後佐敷で梅北国兼らが一揆を起こします。その一揆に島津歳久(義久の弟)の家臣が多く加担していたため、秀吉の怒りを買い、歳久は自刃に追い込まれました。事後処理や検地のため細川藤孝が薩摩へ下向しますが、検地は延期。

のち文禄3年〜4年(1594〜1595)に太閤検地が実施され、このとき決定された石高は当時の生産高の2倍に近く、藩政に多大なる影響を与えました。

晩年は徳川政権下へ

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、弟の義弘は西軍方として戦い、敗北しました。その後、義弘の子・家久が父の弁護に努め、慶長7年(1602)家康から外様大名として73万石を安堵されています。これを受けて、慶長9年(1604)、義久は隼人城(現在の鹿児島県霧島市)に移居しました。

そして、慶長16年(1611)1月21日に死去。79歳でした。

まとめ

島津義久は、木崎原を起点に九州制覇へ突き進み、実際にほぼ制圧の地点まで到達した稀有な戦国大名でした。しかし最後は、秀吉の介入と根白坂の敗北によって、剃髪・降伏することに。

それでも島津家が滅びなかったのは、島津義久が家を残す道を選んだ者だったから。そう捉えると、義久の生涯はより立体的に見えてくるようです。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)

 

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