
(提供:嵯峨嵐山文華館)
藤原基俊(ふじわらのもととし)は平安時代後期を代表する歌人です。生没年は1060年から1142年とされています。名門藤原氏の出身で父は右大臣・藤原俊家(としいえ)。関白・藤原道長のひ孫でもあります。しかしながら、昇進には恵まれず、従五位上・左衛門佐(さえもんのすけ)で終わっています。
和歌だけでなく漢詩にも優れ、当時の歌壇で源俊頼(百人一首74番)と並ぶ重鎮でしたが、才能を鼻にかける性格が災いしたとも。書道、漢字にも造詣が深く、『万葉集』に訓点をつける作業にも加わりました。『新撰朗詠集』の撰者にもなっています。
そんな彼の晩年には、若き日の藤原俊成(百人一首83番)が弟子入りし伝統的な和歌の重要性を教えました。
藤原基俊の百人一首「契りおきし~」の全文と現代語訳
契りおきし させもが露を いのちにて あはれ今年の 秋もいぬめり
【現代語訳】
「私を助けてくださる」と約束してくださいましたね。その恵みの言葉(露)を命の綱として頼みにしてきましたが、ああ、とうとう今年の秋もむなしく過ぎ去ってしまうようです。
『小倉百人一首』75番、『千載集』1026番に収められています。
この歌、実は藤原忠通(ふじわらのただみち)に送ったものです。当時、基俊の息子である光覚(こうかく)という僧侶がいました。基俊は、息子を興福寺の重要な役職である「維摩会」(ゆいまえ)の講師にしてほしいと、時の権力者である忠通に強くお願いしていたのです。
忠通は「標茅が原のさせも草生ふる秋を経てなばしひざしも露になりにけり」(清水観音の歌の一節)を引用し「わかった、なんとかしよう」と約束(契り)しました。基俊はその言葉を信じ、今か今かと吉報を待っていたのです。
ところが、待てど暮らせど連絡が来ない。とうとう人事の季節である秋が終わろうとしている。「話が違うじゃないか!」という焦りと怒り、そして嘆き。それを風流な和歌に包んで、忠通に送りつけたのです。「させもが露」はヨモギの露で、はかなく消えるイメージが約束の儚さを象徴しています。秋の終わりが時間の無常を強調し、「あはれ」(ああ、残念)の嘆きが印象的です。
現代風に言うと、「モンスターペアレントの歌」といったところでしょうか。親心の執着がリアルに描かれています。

(提供:嵯峨嵐山文華館)
藤原基俊が詠んだ有名な和歌は?
藤原基俊が詠んだ歌を紹介します。

から衣 たつ田の山の ほととぎす うらめづらしき 今朝の初声
【現代語訳】
龍田山のほととぎすの、心ひかれる今朝の初声であることよ。
『続千載和歌集』237番に収められています。初二句は慣用句で、四句、五句は『古今和歌集』の本歌を少し改めただけで新しさも内容も無きに等しいのですが、古風な格調を重んじた基俊の主張が強く感じられる歌になっています。
藤原基俊、ゆかりの地
藤原基俊ゆかりの地を紹介します。
西方寺(さいほうじ)
兵庫県神戸市にある西方寺は古くから松の景勝地として知られ、『平家物語』などに登場する「御影の松」があります。そこには「御影の松」を詠んだ、藤原基俊の「世にあらば また帰り来む 津の国の 御影の松よ 面がはりすな」の歌碑があります。
最後に
藤原基俊の「契りおきし~」の歌は、千年近く前に詠まれたものでありながら、今を生きる私たちの心にも響いてきます。約束を守ってもらえない切なさ、それでも待ち続けてしまう人間の性(さが)。こうした普遍的な感情は、時代を超えて共感を呼ぶのです。
基俊は官位では高い地位に就けませんでしたが、その歌の才能は広く認められ、多くの『勅撰和歌集』に作品が採用されました。技巧に走らず、素直な感情を美しい言葉で表現する。これが基俊の歌の魅力ではないでしょうか。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『全文全訳古語辞典』(小学館)
『原色小倉百人一首』(文英堂)
アイキャッチ画像/『百人一首かるた』(提供:嵯峨嵐山文華館)
●執筆/武田さゆり

国家資格キャリアコンサルタント。中学高校国語科教諭、学校図書館司書教諭。現役教員の傍ら、子どもたちが自分らしく生きるためのキャリア教育推進活動を行う。趣味はテニスと読書。
●構成/京都メディアライン・https://kyotomedialine.com
●協力/嵯峨嵐山文華館

百人一首が生まれた小倉山を背にし、古来景勝地であった嵯峨嵐山に立地するミュージアム。百人一首の歴史を学べる常設展と、年に4回、日本画を中心にした企画展を開催しています。120畳の広々とした畳ギャラリーから眺める、大堰川に臨む景色はまさに日本画の世界のようです。
HP:https://www.samac.jp











