藤原京
夫婦愛で完成させた日本初の都城

奈良県橿原(かしはら)市と明日香村にかかる地域に造られた藤原京は日本の最初の都城だ。都城とは天子が住む王宮と条坊制(碁盤の目状の区画)によって造られた市街地が一体化した都市のこと。律令国家を目指す天武天皇(?〜686)が造営を開始したが、天武天皇が亡くなったため、遺志を継いだ皇后の持統天皇が造営を再開させ、持統8年(694)に飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)から遷都した。都の規模は南北約4.8km、東西約5.2kmだった。
天武・持統両天皇の夫婦によって誕生した藤原京だったが、わずか16年で都は平城京に遷(うつ)されることに。中国に派遣された遣唐使が都の長安を実際に見てみると、長安を手本にしたはずの藤原京が似て非なるものであることが判明したのが発端という。諸説あるが、都の中央に位置した藤原宮が低い土地にあるなど、朝廷の権威が保たれないことも遷都の理由になったという。
寺院
最新の文化が結集された みやこのランドマーク

6世紀半ばに朝鮮の百済(くだら)より日本に仏教が伝来する。それは経典の伝来にとどまらず、最先端の文化が大陸からもたらされたことでもあった。天皇や豪族が仏教を信じるようになると、それまでに造られていた大きな古墳は姿を消し、新たな権威の象徴として大きな仏堂や高層建築の塔のある寺院が建てられていく。
推古4年(596)に建立された飛鳥寺(奈良県明日香村)は、日本最初の本格的寺院とされる。伽藍(がらん)は五重塔を中心にして、その周囲に3つの金堂が配置された。飛鳥寺の建物や仏像を造ったのは朝鮮半島から渡来した技術者たちである。飛鳥寺の本尊の釈迦如来を造ったのは渡来系仏師の鞍作止利(くらつくりのとり)で、その仏像は「飛鳥大仏」と呼ばれ、現在の飛鳥寺に祀られている。
寺院の建築、仏像などを中心とした国際性豊かな文化は飛鳥を中心に広がり、奈良時代になると、東大寺の大仏に象徴されるような、国家をあげた仏教文化へと発展する。
時計
正確な時刻は公的概念に

飛鳥寺の北西にある「飛鳥水落(あすかみずおち)遺跡」には、「漏刻(ろうこく)」(水時計)の仕組みがあったと推定されている。漏刻とは、今でいう「サイフォンの原理」を応用したもので、階段状に並べた容器に上から定量の水を流し、たまった水位の変化により時間の経過を計るものだ。漏刻の一番下には、十二支で時刻を記した棒を持つ人形が置かれ、棒の浮き沈みにより時の変化を計り、定時になると鐘や太鼓で人びとに報(しら)せた。
『日本書紀』には、大化の改新を行なった中大兄皇子が斉明6年(660)に漏刻を造り民に時を報せたとある。紀元前1500年頃より水時計が使われてきた古代中国では、皇帝が時間や暦を支配し秩序の規範としたので、中大兄皇子もそれに倣ったのではないかといわれる。それまでは太陽の位置で時間を計っていたが、天候に左右されるのが難点で、夜の時間はわからなかった。漏刻によって、飛鳥の人々はより正確な時を知るようになり、時間の概念が生まれていった。
貨幣
今に続く貨幣経済の基盤ができる

平成10年に奈良盆地南端の飛鳥池工房遺跡で「富本銭(ふほんせん)」が大量に出土し、7世紀後半には日本で金属の貨幣が作られていたことがわかった。中国の銭貨に倣ったものだが、どのように使われたかははっきりしない。
飛鳥時代末期、和銅元年(708)に日本で最初の官製の貨幣である「和同開珎(わどうかいちん)」が発行された。平城京造営のための資材の購入や労賃の支払いに使うことが目的だった。国家は貨幣を独占的に発行することで、米や布などの物々交換システムから、政府管理の貨幣経済への転換を図ったのだ。しかし、人びとは、安い材料で作った銅の貨幣をすんなりとは信用できず、和同開珎はすぐに広まらなかった。
和同開珎から始まって、日本では平安時代の958年まで計12種類の銭貨が作られたが、その後は安土桃山時代まで貨幣が作られることはなく、その間は中国の銅銭が用いられた。
乳製品
牛の乳は煮詰めておいしい古代のチーズに

日本に牛乳が伝来したのは飛鳥時代のこと。孝徳天皇時代(645〜654年)に薬用として、渡来人から牛乳が献上されたと伝わる。その牛乳とは「蘇(そ)」と呼ばれる、牛乳を煮詰めて固めた乳製品で、古代のチーズともいえるものだった。
その後、都で牛が放牧されて乳が搾られ、朝廷に蘇が献上されるようになる。平安時代の法典『延喜式(えんぎしき)』には、各地で蘇を作り宮中に納める「貢蘇(こうそ)制度」の記載が見られる。蘇は高貴な者しか食せない貴重な食物だったのだ。
牛乳が庶民の口に入るようになるのは明治以降のこと。同時に西洋式のチーズが作られるようになる。
麵
小麦粉をひも状に加工した「麦縄」が源流

わが国の麺のルーツは、中国から渡来した「索餅(さくべい)」といわれる。小麦粉に塩水を加え練り、縄のようによじり合わせた麺で、その形状から「麦縄(むぎなわ)」とも呼ばれた。宮中では薬味などと和えて食べられていたようだ。小麦の栽培は弥生時代にさかのぼるが、麦縄のように麺に加工されて、食べ方がわかってくるのは奈良時代に入ってからである。やがて小麦粉を練った生地に油を付けて手延べしたものが「そうめん」、包丁で切ったものが「うどん」の始まりとなった。奈良の「三輪そうめん」は、良質な小麦と水、冷え込む冬の盆地気候から生まれた名物である。
かき氷
「氷室」で保管された氷は超贅沢品

夏に冷たいもので涼を得たいという願望は古代からあっただろう。それを実現したのが「氷室(ひむろ)」だ。『日本書紀』に大和国闘鶏野(やまとのくにつげの・奈良市)で、穴の中に草を敷き詰めて氷を保存した様子が記されている。氷は池の貯水を厳寒時に凍らせて運んだ。奈良公園の近く、和銅3年(710)創建の氷室神社には氷室が備えられ、平城京に氷を献上していた。夏の氷は、宮中だけで利用できるきわめて貴重なものだった。平安時代の『枕草子』には、清少納言が今のかき氷のような食べ方を楽しむ記述があるが、奈良時代の高貴な人々も氷を削って食べていたことだろう。
取材・文/宇野正樹 イラスト/福田希美

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