文/鈴木拓也

蔦屋重三郎ブームのなか、当時の出版界に冷や水を浴びせた松平定信は、どちらかといえば敵役という扱いだろう。多くの人にとって定信は、いたずらに文化を統制し、質素倹約を強いた頑迷固陋な政治家というイメージかと思う。
だが、実像はどうなのだろうか?
「未完」に終わるが、世にもまれな名宰相だと言うのは、中国・日本思想研究家の大場一央さんだ。
大場さんは、定信の政策によって飢饉や借金に苦しむ人が激減し、地方が活性化し、庶民の教育水準が向上するなど、数々のプラスの効果があった点を指摘。詳細を著書『未完の名宰相 松平定信』(東洋経済新報社 https://str.toyokeizai.net/books/9784492062289/)にまとめている。
定信は、はたして暗君なのか名君なのか。本書の内容の一端を紹介するので、考えてみよう。
白河藩で政治家としての手腕を発揮
定信は、第8代将軍徳川吉宗から分家独立した御三卿の一門、田安家で産声を上げた。宝暦8年(1758)のことで、賢丸(まさまる)と名付けられた。15人の兄弟姉妹の3男にあたる。
幼い頃から病気がちであったが、知性の面では早熟で、13歳にして儒教の人倫の教えをまとめた『自教鑑』を著す。これを手始めに、生涯にわたって100部を超える著作を書いており、政治家以前に並外れた知識人という側面を持っていたのである。
18歳になると、幕命により白河藩の婿養子に入り、19歳で藩主の松平定邦の娘・峯姫と結婚。26歳で藩主に就任するが、おりしも世の中は天明の大飢饉のさなか。そして白河藩は、財政難からくる資金繰りのため、備蓄米はすべて売り払っていた。
しかし、定信は慌てなかった。まず、隣の会津藩から米を緊急輸送してもらうなど、当面の米は確保。出納の合理化、商人の米価操作の禁止、味噌や塩などを領内で支給するなど、矢継ぎ早に対策を立て、実行に移した。
おかげで白河藩は、「餓死者ゼロという、驚異的な実績」を生み出すことになる。
その後も定信は藩の改革を続けていき、財政・経済状況は回復。その評判は江戸にまで届いた。かくして定信は、30歳の若さで幕府から異例の抜擢を受け、老中首座に任命されるのである。
「生身の人間」を無視して破綻した田沼時代
定信が老中首座になった時点では、前任者の負の遺産が重くのしかかっていた。
前任者とは田沼意次である。彼は、吉宗の財政再建策を踏襲して倹約令を続行し、株仲間(同業組合)に運上・冥加という名目で税を納めさせ、印旛沼・手賀沼開拓など大事業を構想するなどして、幕府財政の立て直しをはかった。
やがて江戸の経済は活発化し、地方から多くの農民が流入し、人口は大膨張した。経済政策の一環として大商人を優遇したことから、消費をうながす流れも強まる。贅沢で華美なことをよしとする風潮が加速し、その流れに乗って蔦屋重三郎というメディア界の寵児が登場した。
倹約令とは裏腹に、江戸の街に華やかな庶民文化が花開いたのは、田沼が予期しなかったことだったようだ。もう1つ予期していなかったのは、賄賂の横行だ。田沼が推進した幕府の事業委託をねらう大商人たちが、役人にせっせと賄賂を贈るようになったのである。やがて、利権を得た一部の人しか儲からない構造が生まれ、大半の庶民は重税にあえいだ。
最終的に田沼は、「あらゆる階層の信用」を失い、失脚することになる。
大場さんは、ひたすら功利的に政策を推し進め、「生身の人間を見ようとしなかった」ことを、田沼の失政の素因として挙げる。
対して定信には、若い頃から学んだ、朱子学を柱とする人間哲学が土壌としてあった。政治家には、儒教でいう「誠」があってこそ、国民の「信」を得られるとし、その実践に努めたのである。
厳しい倹約令や統制令の真意
さて、その定信が就任早々に発したのは、役人に対しての、季節の進物を除くあらゆる贈答の禁止であった。
さらに倹約令も打ち出したが、これは複雑化した行政の文書類や手続きのスリム化も意図されていた。意味もなく複雑になりながら、実質の伴わない事務作業の合理化をはかり、収支安定を狙ったのである。
庶民は、お上が容赦ない合理化を断行したということで、定信を支持した。そのタイミングで定信は、庶民にも質素倹約を奨励するとともに、風俗統制令を施行した。この法令には、大名家重役の接待制限、違法売春宿の摘発、混浴の禁止といったものが含まれていた。
さらには、出版統制令も出し、当時流行していた黄表紙、洒落本、狂歌などが取り締まりのターゲットになった。作家の朋誠堂喜三二や恋川春町が処罰され、蔦屋重三郎は財産の半分を没収という処分を受けた。
これだけを見ると定信は、上から下までただただ綱紀粛正で締め付けただけの、悪評どおりの人物に思える。しかし、定信の真意は別のところにあったと、大場さんは見る。少し長くなるが、本書から引用しよう。
これから分かることは、頽廃的な生活と過激な政治主張を防止しようとしていたことです。というのも、国民の自律を求める定信にとって、非倫理的な価値観が蔓延することは、人倫を破壊して社会を混乱に陥れることになりますし、物事のケジメがつけられない人間は、日常生活においても経済的に自立することは困難です。また、過激な政治主張は一見すると社会に対する問題意識を育てるように見えますが、実際のところ不確定な情報にもとづいて非現実的な議論を生み出し、いたずらに敵と味方に分かれて社会を分断してしまいます。したがって、出版業界のルールづくりを進めることで、人々の表現や価値観が穏やかに成熟する場をつくろうとしたのです。
(本書132pより)
突然の失脚と再評価
しかし、長期的な展望にもとづく定信の政策は、反発を招くばかりであった。「白河の清きに魚も すみかねて もとの濁りの 田沼恋しき」という有名な狂歌が、庶民の心の裡を代弁している。
くわえて、予算を大幅に削られた大奥や、筋を通したことで恨みを買った有力者ら「反定信グループ」が増長し、「ほとんど陰謀のような形」で定信は職を解かれることになる。その顛末は本書に詳しいが、ここでは割愛しよう。
失脚して白河藩に戻った定信は、藩の改革に邁進。景気回復や軍備改革など成し遂げ、老中時代の寛政の改革が間違いではなかったことを、世に認識させる。幕府もそれを無視できず、態度を改めていく。ちなみに、後に編纂させた『近世職人尽絵詞』には、かつて処罰した朋誠堂喜三二や山東京伝を起用している。ただ官能や批判に走っただけの創作物はよしとしないが、精神性豊かな文化への理解は深かったのである。
このように見ていくと、定信は決して暗愚な政権幹部ではなく、時代を超えて語り継ぐべき名宰相であったとわかる。重三郎ファンも、そうでない方にも読んでほしい1冊である。
【今日の教養を高める1冊】
『未完の名宰相 松平定信』

定価1980円
東洋経済新報社
文/鈴木拓也
老舗翻訳会社役員を退任後、フリーライターとなる。趣味は神社仏閣・秘境めぐりで、撮った写真をInstagram(https://www.instagram.com/happysuzuki/)に掲載している。











