文/晏生莉衣

写真:PIXTA

これまでのレッスンでは、初代ローマ教皇ペトロや魚にまつわる聖書の話を取り上げてきました。西洋美術にはそうした聖書のエピソードを題材にしたさまざまな作品がありますが、なかでも、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」は世界的な関心を集めてきた名画です。

この絵はイタリアのミラノにある修道院の食堂の壁に描かれたので、外部の美術館に貸し出すということはできません。現地に行かないと本物を鑑賞することはできないのですが、それでも、どこかで写真や複製を目にしたことがあって、もちろん知っているという方が多いでしょう。

質問:では、「最後の晩餐」はなにを描いているのでしょうか。

回答例:「イエス・キリストと弟子たちがいっしょに食事をしている場面では?」

その答えはおおまかな全体像をとらえている点で正解です!

でも実のところ、巨匠レオナルドの「最後の晩餐」は、聖書の物語とはだいぶ違うところがあるのです。どこが違うかご存じですか?

そもそも「最後の晩餐」とはどんな食事か?

レオナルドをはじめ、「最後の晩餐」を描いた画家たちのインスピレーションとなったのは、新約聖書のすべての福音書に記されている特別な食事のエピソードです。

なかでもマタイ、マルコ、ルカによる三つの福音書は内容が似ていることから共観福音書と呼ばれていますが、共観福音書には、この特別な食事はイエスが弟子たちに命じて準備させた「過越の食事」であると記されています。

はて、過越(すぎこし)とは? あまり聞いたことのない言葉ですが、モーセに率いられたイスラエルの民が割れた海を進んでいく壮大なシーンで有名なクラシック映画『十戒』を見たことがあれば、おわかりになるかもしれません。

「過越」は、『十戒』の原作でもある旧約聖書の出エジプト記の中で、エジプト全土を襲った恐ろしい災いが、神にしたがって印を付けた家だけは襲うことなく通り過ぎていった(=過ぎ越した)という出来事に由来しています。

こうして神がイスラエルの民をエジプトでの奴隷生活から救い出したことを感謝して祝うのが過越の食事で、その食事の儀式は日が暮れてから行うと定められていましたから、夕食、すなわち「晩餐」でした。そして、イエスと弟子たちがとったその晩餐は、イエスが十字架上の死を遂げる前に弟子たちと分かち合った最後の食事となりました。「最後の晩餐」という絵画のタイトルにはそうした文脈が込められています。

晩餐で食べられたものは?

では、イエスたちの最後の晩餐ではどんなものが食べられていたのでしょうか。

伝統的なイスラエルの食文化や慣習にもとづく過越の食事を現代風のメニューにしてみると、メインディッシュは子羊(ラム)肉のロースト、そのほかに、無発酵パン、豆の煮込みシチュー、苦いハーブのサラダ、オリーブ、ナツメヤシ、そして赤ワイン。考古学や聖書学などの研究からそんなふうに想像されています。災いを避ける印として捧げた子羊の肉を過越の追憶として焼いて食べるのは、モーセの律法で定められていた掟(おきて)でした。

こうしたことから、レオナルドの「最後の晩餐」でも、お皿の上に描かれているのは子羊の肉料理だろうとする考えが長きにわたってあったのです。

修復でもたらされた新発見

ところが、約20年かけて行われた大がかりな修復が1999年に終わり、絵の表面の汚れや後世の画家による度重なる加筆によって失われてしまったオリジナルのディテールが鮮明になったことによって、驚くべき発見がありました。

修復で明らかにされた「最後の晩餐」のお皿の上の食べ物は、子羊の肉ではなく魚だったのです。過越の食事メニューを当然視してきた人々には衝撃的な新事実でした。

お皿の上の料理はさらにくわしく研究され、描かれたのは、絵が制作された15世紀のミラノで「ごちそう」の一品とされていたうなぎのグリルにオレンジスライスを添えたものだという説が唱えられるようになりました。うなぎはレオナルド自身も好んで食していたと示唆する書き物が残っていたのも「うなぎ」説の “推し” となったという意見もあります。

しかし、2000年前の食文化を考察すると、「うなぎのグリルのオレンジスライス添え」のようなおしゃれな料理をイエスたちが食べた可能性はきわめて低いですし、子羊を食べるという過越の食事の厳格なルールからはまったくはずれています。ですから、「最後の晩餐」に描かれたこの魚料理は、レオナルド独自のアイディアによる創作メニューということになります。

一方、この魚はニシンだという説や、魚の種類について意図的にあいまいにされているという見解もあります。議論は続いていますが、いずれにしても、大修復が終わってからは、レオナルドが描いた「最後の晩餐」のメインディッシュは魚料理だというのが新説となっています。

聖書を忠実に再現してはいない

そして、この絵には、ほかにも伝統的な常識との相違があります。古代エジプトからの脱出劇では、急いでいてパンを発酵させる時間がないので酵母を入れずに焼いた無発酵の「種なしパン」を食べたことから、過越の食事では、その記憶をたどって硬くて平たい種なしパンを食べる定めになっています。

ところが、レオナルドのテーブルにあるのはロールパンのようなふっくらとしたパンです。これは当時、一般的に食べられていた発酵させたパン、つまり、「種ありパン」です。

また、食事の様式にも違いがあります。絵画では、イエスを中心に全員が横一列にテーブルにつき、椅子に座って正面方向を向いていますが、このようなスタイルはイエスの時代のものではありません。聖書には書かれていませんが、イエスたちは当時の作法や習慣にのっとって、コの字型の低いテーブルを囲み、寝椅子にゆったりと横たわるような姿勢で過越の食事をしたと考えられています。

食卓で繰り広げられる弟子たちのドラマ

さて、少し専門的になりますが、共観福音書にある「最後の晩餐」のエピソードには、二つの主要ポイントがあります。一つはイエスを裏切る者がいることの予告、そしてもう一つは、パンとワインを聖体へと変化させて分かち合うという神学的にきわめて重要なポイントです。

レオナルドは、聖書の歴史にのっとらない食事メニューやスタイルを採用しても、「裏切りの予告」という核心ははずすことなく、聖書のストーリーをドラマティックに描いています。

修復で復元された絵では、うつむき加減のイエスの口がわずかに開いていることもわかりました。それによって、「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている」とイエスが弟子たちに告げた瞬間を、レオナルドは描いたという解釈ができるようになりました。弟子たちがそのショッキングな言葉をイエスから聞いたときの驚き、当惑、怒り、悲しみといった感情も、それぞれの表情やしぐさで繊細に表現されています。

絵ではイエスを中心に「十二使徒」と呼ばれる弟子たちが左右に分かれて描かれ、イエスから向かって左の二人目にいるのが裏切り者となるユダです。その右手には袋が握られています。これは、イエスを売ったことで得た銀貨30枚が入った袋とされ、ユダの裏切りを表しています。

ユダの隣にいる一番弟子のペトロはけわしい顔つきで、ユダの背中側に伸ばした右手でナイフを握っています。これは、ユダの裏切りによってイエスが捕らえられた際に、ペトロが剣をふるってイエスを守ろうとしたこと(レッスン41参照 https://serai.jp/living/1249977)を連想させるという解釈もあります。

重なるように描かれた二人の弟子のこうした様子から、聖書の内容をご存じなら、晩餐後の受難物語の始まりに思いをはせる想像力がより一層、刺激されるでしょう。

このように修復でさまざまなディテールがよみがえったことで、ミラノ市民に楽しまれた“おいしさ”が並ぶ食卓を囲む穏やかな時間が、突如として、動揺と混乱に満ちた状況へと暗転する劇的なシーンを目にしている、という理解をもって「最後の晩餐」を味わうことができるようになりました。

なぜ「魚料理」だったのか?

20世紀の大修復を経て明かされた、聖書との距離感を自在に変える演出で、イエスと十二使徒の人間模様を生き生きと、時空を超えるように描いたレオナルドの「最後の晩餐」は、より一層魅力あふれる芸術作品として再認識されています。

それにしても、ルネサンス時代のイタリアでは豊かな美食文化が花開き、「最後の晩餐」のメインディッシュの料理にもさまざまなチョイスがあったと思われますが、レオナルドはなぜ「魚料理」にしたのでしょうか。

いろいろな主張がありますが、制作時の環境の観点から指摘されているのは、修道院の食堂の壁に描かれたので、戒律で肉食を控えていた修道士たちに配慮して、彼らの日常食であった魚を選んだといった説です。

聖書の観点からもさまざまな解釈がされています。これまでのレッスンでも紹介してきたように、イエスが漁や魚に関する数々の奇跡を起こしたことなどから、魚はイエスと結びつけやすい食べ物だったという指摘がありますし、復活後のイエスが弟子たちと食事をした際に食べたのも魚でしたので、その要素を取り入れたという説もあります。

そして、より根本的なこととして、キリスト教において魚はイエス・キリストを象徴するシンボルだということがあります。これについては、次回のレッスンでくわしく学んでいきましょう。

<注> 出典:日本聖書協会『聖書協会共同訳 新約聖書』

文/晏生莉衣(あんじょう まりい)
教育学博士。国際協力専門家として世界のあちらこちらで研究や支援活動に従事。国際教育や異文化理解に関する指導、コンサルタントを行うほか、平和を思索する執筆にも取り組む。著書に、日本の国際貢献を考察した『他国防衛ミッション』や、その続編でメジュゴリエの超自然現象からキリスト教の信仰を問う近著『聖母の平和と我らの戦争』。

 

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