たかが羊羹だけれども
I:興味深かったのは、定信が、大奥の経費削減策のひとつとして、「鈴木越後の羊羹」をもちだしてきたところです。
A:「鈴木越後の羊羹」は、当時の最高級の羊羹。その羊羹をやめて、城内で羊羹をつくれば、10分の1の費用で済むのでは、というのが松平定信の主張です。確かに費用は少なくなるとは思うのですが……。ちなみに、今日主流の練り羊羹は、京都で江戸中期ころに生まれた和菓子です。現在のような寒天を使って練り上げる練羊羹が江戸に普及したのはそれより後。「鈴木越後」の羊羹は中でも最高峰の扱いで、「天下鳴(てんかになる)」と呼ばれていたそうです。蔦重より少し後の時代の名物商人の番付では西の大関に君臨しています。
I:現代でいえば、「虎屋の羊羹」ということになるのでしょうが、当時の江戸には「虎屋」はなかったのですか?
A:「虎屋」は、「京都の朝廷の御用達」で『べらぼう』の時代はまだ江戸にはありません。明治維新とともに、明治天皇の東京奠都とともに東京にきたわけです。幕府御用だった「鈴木越後」などは、維新後ほどなくして廃業を余儀なくされました。京都から東京にやってきた「虎屋」の前に屈したのでしょうか。
I:そういえば、『べらぼう』でも吉原の会合に仕出し弁当を提供していた人気料亭『百川』も維新後まもなく忽然と姿を消したといわれていますね。
A:きっと「田沼→松平定信」の政権交代とは異なる異次元の衝撃が江戸を襲ったのだと思われます。
I:ちなみに、江戸一番と評された「鈴木越後」の羊羹がどんなものだったか知りたい人は、富山まで行って下さい。鈴木越後で修行した茂助という職人が技を受け継ぎ、幕末に富山で開業したという店が今も続いています。現在も「鈴木亭」という屋号で羊羹を作り続け「大奥」でも愛された味を受け継いでいます。私も食べたことがありますが、きめ細かくて滑らかで、甘さも控えめ。杉目模様が特徴的な綺麗な羊羹なんですよね。
更地にするという流儀
I:さて、松平定信の棄捐令です。ざっくりいうと「借金を棒引き」するという政策です。鎌倉時代の永仁5年(1297)に出された「永仁の徳政令」が最初の同種の政策です。鎌倉幕府第8代将軍久明親王、第9代執権北条貞時の時代です。二度目の元寇から十数年、鎌倉幕府滅亡まで36年というタイミングです。
A:借金棒引きというのは、借りた側からみればありがたい政策ですが、借りた金を返さないことがOKというのは、モラルの低下にもつながりかねないので諸刃の剣的政策ですよね。
I:さらに定信は、「中洲」という繁華街を壊すという判断をしたことにも触れられました。「遊ぶところがあるから無駄金を使う」というのが、「堅物定信」を象徴する事象です。
A:中洲というのは、現在の隅田川の中洲に設けられた繁華街。できあがって10数年しか経っていない「街」を更地にしてしまったというものです。よくよく考えればものすごい政策です。「更地」といえば、『べらぼう』の劇中では可視化されませんでしたが、田沼意次(演・渡辺謙)の居城「相良城(静岡県牧之原市)」が、徹底的に破却されたことも想起されます。中洲の更地化、相良城の破却と併せて考えると、自らの意に沿わないものは徹底的に破壊するというのが松平定信の流儀ということなのでしょうか。
I:私はその話を聞いたとき、恐ろしいと思いましたし、田沼意次はそこまでされるほど、ひどいことをしたのだろうか、と思いました。
A:相良城の破却は「前代未聞」のことです。そのことで、「田沼=悪」を強烈に印象付けることになりました。松平定信、恐るべしです。

●編集者A:書籍編集者。『べらぼう』をより楽しく視聴するためにドラマの内容から時代背景などまで網羅した『初めての大河ドラマ~べらぼう~蔦重栄華乃夢噺 歴史おもしろBOOK』などを編集。同書には、『娼妃地理記』、「辞闘戦新根(ことばたたかいあたらいいのね)」も掲載。「とんだ茶釜」「大木の切り口太いの根」「鯛の味噌吸」のキャラクターも掲載。
●ライターI:文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。猫が好きで、猫の浮世絵や猫神様のお札などを集めている。江戸時代創業の老舗和菓子屋などを巡り歩く。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり
