神田 紅(講談師・72歳)

─型破りな創作と伝統芸で老若男女を魅了する日本講談協会会長─

「いくつになっても何にだって挑戦できる。何かを始めるのに遅い、早いはありません」

平成28年から日本講談協会会長の重責を担う。入門当時、女性講談師は異端児だったが、神田紅さんらの活躍もあり、今では女性のほうが多くなったという。

──女性講談師が業界を盛り上げています。

「講談師は今、東京だけで80名ほどいるのですが、そのうち女性が6割を占めます。あたしが始めた頃に比べ、隔世の感があります」

──と、いいますと。

「師匠(二代目神田山陽)に弟子入りしたのは27歳、昭和54年のことです。その当時、女性はたったの4人でした。というのも、講談界は本来、女を入れるようなところじゃなかったんです。江戸時代の終わりに、円山尼という女性の講釈師がいた記録はあるのですが、師匠ですらよく知らない。“名前が出てくるのも一瞬だけで、途中で消えているから、やっぱり長続きしなかったんだろうね……”とのことでした。そういう男社会に、右も左もわからない27歳の小娘が飛び込んだんですから、風当たりは強いものがありました」

──若い頃から講談の道を。

「いいえ。あたしは九州、博多の生まれで、祖父は軍人、父も陸軍士官学校の出という“男が強い”家庭で育ちました。次女として生まれ、“男なら良かった”とがっかりされたと聞きます。家族の愛はふたつ年上の姉にそそがれ、期待は4つ下の弟にかけられ、あたしは宙ぶらりん。“女のくせに”と周囲から言われ続けましたが、“なにくそ”と燃えたんでしょうね。普通の主婦になるのが嫌で、医者を目指して勉強を頑張りました」

──今とはまったく違う世界です。

「ところが、医学部受験に失敗しまして(笑)。浪人中に大失恋を経験して、ひょんなことから次は女優になろうと狙いを定めた。それなら学生演劇が盛んな早稲田大学に入ろう……と短絡的に考え、早稲田には受かった。入学式の日に早速、演劇研究会の門を敲き、翌年には文学座演劇研究所に入所。大学も休学し、芝居の世界へまっしぐらでした」

──目標とした女優の道は開けました。

「演劇のために早稲田に行くこと自体、両親には内緒でした。挙げ句、大学を勝手に休学してしまった。父親に報告すると“お前には匙を投げた”という態度で。親戚からもひどい言葉で罵られました。当時はまだ、女性が役者や芸人になることを蔑む風潮が強かったのです。それでも“これがあたしのやりたいこと”と決意し、研究所での修業も順調に進みました。ところが……」

──何があったのですか。

「卒業公演でも主役を務め、次の研修科に進めると思っていたのですが、合格発表に名前がない! 理由を聞くと、体操の先生が“体操をほとんど欠席したような生徒は認めない”と言い張ったそうなんです。でも欠席したのは別の生徒で、実は人違い。主張しても後の祭りで、大失恋に次ぐ、人生という舞台の暗転を経験しました」

──文学座から放り出されてしまった。

「そう。それで知り合いの叔父に名優の常田富士男さんがいたので、細い伝手をたどって、いろいろ相談してみたんです。そしたら事務所を紹介してくれて。常田さん、中村敦夫さん、原田芳雄さん、市原悦子さんら、個性派俳優の集う事務所への所属が叶いました。そして端役ですが、すぐにドラマや映画の役をもらうこともできたんです」

──順風な滑り出しです。

「とはいえ名優たちのお芝居を間近で見るようになり、その凄さに圧倒されました。市原悦子さんの付き人もしましたが、演技の集中力がまるで違うんです。何か身につけるしか、生き残る道はない。そう思い詰めて、モダンダンス、日舞、タップダンス、三味線……と、さまざまな習い事で自分を磨きました。努力は報われると信じて。ところがあるとき、ジャズダンスを教えてくれた振付師の一の宮はじめ先生から、“スターになる人は生まれつきその星を持っている。あなたは百倍努力しても無理”と宣告されてしまったんです」

20代半ばの女優時代。神田紅さんは「中原鐘子」の芸名で、市原悦子さんの付き人などをしながら女優として活動した。27歳のとき、講談の世界の奥深さに触れたという。

「芸の心配をするのではなく、“人間を磨け”との師匠の言葉」

──残酷な宣告です。

「一の宮先生は、ジュディ・オングさんの『魅せられて』やザ・ドリフターズのヒゲダンスなど多くの曲を振り付けた一流の振付師です。スターをよく知る先生が“あなたはスターになれない”という。スターとそうでない人の間には明確な境界線があって、死ぬほど努力すれば線の下まで近づけるけど、超えることはないっていうんです。泣きました。しばらくレッスンからも足が遠のきました。でもこのとき、自分の甘さにも気づいた」

──どういうことですか。

「ほら、少し前に『世界に一つだけの花』という曲が流行ったでしょ? 誰もが世界で唯一の特別な存在なんだと勇気づける曲です。さっきも寄席で師匠たちとその話になったんですが、才能なんて誰もが持っているわけじゃない。皆、自分に甘いから、その事実に目を向けようとしない。あたしもそうだった。でもね、自分に才能がないと自覚してから始めればいいんです。死ぬほど努力すれば線の下まで近づけるというんだったら、そうすりゃいい、と」

──大きな覚悟です。

「とはいっても、20代のときはそんなふうに達観する余裕はありませんでしたよ。実際は仕事も入らず、悶々としていた時期がありました。ちょうどそんなとき、“舞台で30分、何かやってくれないか”と知り合いの舞台音楽家から声がかかります。台本もなければ演出家もいないという。“何すればいいの?”と尋ねて返ってきたのが“講談はどうだろう”のひと言でした。そして紹介されたのが、二代目神田山陽師匠。会ったその日に、師匠はさわりをやらせてくれたのですが、簡単なようで、これがまた難しい。習い事好きのあたしの血が騒いで“稽古をつけてください”とその場で頭を下げていました。師匠は即断即決で入門を許してくれました」

──女性講談師の誕生ですね。

「師匠はそのとき、ひとつだけ条件をつけたんです。友だちを連れて来いという。後で知ったんですが、“ライバルがいると切磋琢磨するから”という師匠の親心でした。それで文学座演劇研究所で同期だった関口和代さん(のちの神田紫さん)ら友人たちを誘って師匠の元を尋ねました。このとき、あたしの着ていた服の色が紅(くれない)。それで、師匠はあたしに神田紅と名づけました」

──師匠も難しい決断だったのでは。

「実はこの頃、講談界はどん底にありました。昭和43年に『講談師ただいま24人』という本が出版されましたが、伝統芸能なのに本当に24人しかいなかった。あたしが入門したのは昭和54年ですが、まだ底でした。師匠はそんな状況を打破しようと、女流育成にも力を入れたようです。師匠は大らかで“好きなようにおやんなさい”というから、ミュージカル講談と名づけて、舞台でタップダンスを踊ったこともあります。そしたら師匠、“面白い、君は天才だ!”って。今まで親からも褒められたことがないから、これが嬉しくて。一方で、死ぬほど努力しなければ駄目なこともわかっている。一の宮先生の言葉で活を入れられ、師匠に褒められて勇気をもらいながら、芸に打ち込みました。とはいえ、女性講談師に風当たりの強い時代でしたし、あたしは日本舞踊やタップ、歌に創作講談にとやりたい放題。師匠の元には批判も届いていたようですが、そんなことはおくびにも出さない。それどころか、自由にやらせるため、しばらくは個人弟子の扱いで高座にあがらせてくれました。正式に講談協会の会員として前座入りしたのは昭和59年。32歳のときです」

──平成元年に真打に昇進します。

「古今亭志ん朝師匠に立川談志師匠。落語家の師匠の皆さんにもご指導いただき、真打にたどり着きました。あるとき、談志師匠に“芸が流れている気がする”と相談すると、“いいじゃねぇか、お客はお前さんを見に来てんだ”と言われました。いらぬ心配する前に“人間を磨け”ということなのでしょう。70歳を過ぎた今も肝に銘じています」

「弟子の成長と活躍のためにも、ブームの火を消さないよう頑張る」

東京の「お江戸上野広小路亭」にて、落語芸術協会の定席で講談『春日局』を披露。時には凄みを利かせ、緩急思いのままに、朗々とした声が場内に響き渡った。
扇子や手拭いなどの商売道具。右は、講釈台を叩いて音を出す「張り扇」。50歳で神田紅さんに弟子入りし、7年前に亡くなった神田紅葉さんが残したもの。

──ひとり暮らしと伺いました。

「30余年連れ添う13歳年下の夫がいますが、今は秩父(埼玉)の実家を継いで、司法書士をしています。ゆっくり会うのは年3回ぐらいでしょうか。毎日のようにスマホでやり取りするメール夫婦です。だいたいあたし、主婦に向かないんですよ。張り切って料理を作っていたのも新婚1週間ぐらいで、忙しいから夜も遅く、同居していても顔を合わせる時間がほとんどない。今は別居状態ですが、その分、いつ会っても恋人気分で新鮮。あ、これはノロケですね(笑)」

──年齢を重ねることで芸は。

「良くも悪くもあります。若い時分は高座に上がるだけでわーっと歓声があがってチヤホヤされたもんです。でも、この歳になると体調を崩しやすいし、何より膝が痛くて痛くて(笑)。50歳を超えた頃、あたしより30年もベテランの女流俗曲師の玉川スミ師匠に、年齢への不安を打ち明けたことがあるんです。そしたら、何と言ったと思います? “そんなもんはね、忘れるんだね。あたしゃ生まれた年も忘れたよ”って。続けて、“老いなんて考えちゃ駄目”と説教されました」

──背中を追いかける存在のひとりですね。

「師匠は80歳を過ぎてから入退院を繰り返していたんですが、その頃、失礼ながら今しか聞けないと思って、引退や死に対する不安についてどう思うか聞いてみたんです。そうしたらいつもニコニコしている師匠が、キッと嫌な顔をしてボソッと、“紅くん、嫌なこと聞くね。そんなこと考えたことないから、その答えは死んでからでいいかい”とね。メジャーリーグで活躍する大谷翔平さんもお好きだという中村天風という思想家がいますでしょう。天風さんの半生を創作講談にしたことがあるのですが、彼も死について師匠と同じような言葉を残しているんです。“死んでからゆっくり考えればいい”って。生きている間は、今このときだけを考えろ、ということ。あたしもそう考え、日々精進しています」

──日本講談協会会長としての舵取りは。

「講談界は今、六代目神田伯山をはじめ、次々とスターが現れ、盛り上がりをみせています。女性講談師も大活躍しています。あたしには今、神田蘭、三代目松林伯知、神田紅佳、神田紅純、神田紅希という5人の弟子がいます。弟子の成長と活躍のためにも、このブームの火を消さないように頑張りたい」

東京(平成11年~)と福岡(平成14年~)で毎月1回、「紅塾」を開催。初心者から愛好家まで、約80人の塾生に講談を指導する。プロになった塾生も少なくない。

──講談教室もすごい生徒の数ですね。

「25年前から、東京と福岡で『紅塾』という講談の教室を開いています。より多くの方に講談に親しんでもらいたい、講談をもっと広めたい、という思いから始めました。生徒さんは、20代もいますし、70代になって始められた方もいます。年齢はまったく関係ありません。いくつになっても歳は忘れられるし、何にだって挑戦できます。新しいことを始めるのに、遅い、早いはありません。それより“やることがある”ほうが大事。生徒さんは皆、大きな声を出し、いきいきした表情で講談に挑戦しています」

──生徒の存在が励みにもなります。

「ええ、あたしも生徒さんに負けないように芸を磨き、声が出なくなるまで、高座に上がり続けるつもりです」

日本講談協会や落語芸術協会の定席などのため、毎月、電車を乗り継いで頻繁に「お江戸上野広小路亭」へ足を運ぶ。定席では、落語や講談、演芸などが幅広く楽しめる。

神田 紅(かんだ・くれない)
昭和27年、福岡県生まれ。早稲田大学商学部中退。学生時代より演劇活動を始め、文学座付属演劇研究所生を経て女優となる。昭和54年、二代目神田山陽と出会い、講談の魅力にとりつかれて入門。平成元年、真打に昇進。平成28年、日本講談協会会長に就任した。古典だけでなく、『北斎の娘 お栄』など新作講談も手掛ける。著書に『紅流 女講談師として生きて』など。

※この記事は『サライ』本誌2024年12月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。
(取材・文/角山祥道 撮影/塚田史香)

 

関連記事

ランキング

サライ最新号
2025年
3月号

サライ最新号

人気のキーワード

新着記事

ピックアップ

サライプレミアム倶楽部

最新記事のお知らせ、イベント、読者企画、豪華プレゼントなどへの応募情報をお届けします。

公式SNS

サライ公式SNSで最新情報を配信中!

  • Facebook
  • Twitter
  • Instagram
  • LINE

小学館百貨店Online Store

通販別冊
通販別冊

心に響き長く愛せるモノだけを厳選した通販メディア

花人日和(かじんびより)

和田秀樹 最新刊

75歳からの生き方ノート

おすすめのサイト
dime
be-pal
リアルキッチン&インテリア
小学館百貨店
おすすめのサイト
dime
be-pal
リアルキッチン&インテリア
小学館百貨店