禎子内親王の誕生と道長の思惑
長和2年(1013)、妍子は禎子内親王(ていしないしんのう/のちの陽明門院)を出産。しかし、父・道長は皇子の誕生を強く望んでいたため、女子の誕生に不満を露わにしたと伝えられています。
道長は天皇の外戚として摂関の地位を確保し、さらなる権力を手に入れることを目論んでいたためでしょう。
皇太后への昇進と政治的困難
寛仁2年(1018)10月16日、妍子は皇太后となります。しかし、三条天皇は在位わずか4年余りで譲位し、妍子自身も皇子を産むことはありませんでした。
娘・禎子内親王の入内と最期
万寿4年(1027)3月23日、妍子は娘の禎子内親王を東宮・敦良親王(あつながしんのう/のちの後朱雀天皇)のもとに入内させます。
しかし、同年9月14日、妍子は病に倒れ、出家。その後、34歳で崩御しました。大谷大峯寺前野で荼毘に付され、遺骨は木幡に葬られています。
まとめ
藤原妍子の生涯は、父・藤原道長の政治的野心と皇位継承をめぐる権力闘争に深く関わり、人生を左右されたといっても過言ではないでしょう。
その一方で、『栄花物語』によると、折々の行事では妍子に仕える女房たちの華やかな衣装が評判を集めていたようです。そうして人生の憂さを晴らしていたのかもしれませんね。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『国史大事典』(吉川弘文館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)