2024年7月3日、20年ぶりに新紙幣が発行されました。新しい顔として選ばれたのは、一万円札は「渋沢栄一」、五千円札は「津田梅子」、千円札は「北里柴三郎」です。採用理由は、日本の近代化において「新たな産業の育成」「女性活躍」「科学の発展」といった面で大きく貢献したこと。なかでも渋沢栄一は、大河ドラマの主人公として取り上げられたのも記憶に新しいでしょう。
これまでサライ.jpで取り上げた渋沢栄一の記事の中から、91年におよぶ波乱万丈な生涯と功績について改めてご紹介します。
1:幼少時からの幅広い読書経験が栄一の原点
天保11年(1840)、いまの埼玉県深谷市血洗島に生まれた渋沢栄一。文武両道に励みますが、なかでも従兄の尾高惇忠から教えられた独特な読書法が後の人生に大きく影響を与えます。『論語』から歴史書、小説まで幅広く読んだ経験から、多方面から情報を収集できるようになったのです。
尊王攘夷思想(※王室を尊び、異国を排斥する考え)に傾倒していた惇忠の影響で、栄一も徳川幕藩体制に疑念を抱くようになります。23歳の年、彼は近くの高崎城を乗っ取り、横浜外国人居留地を焼き払い、外国人を片っ端から切り殺すという物騒な計画を立てますが、中止。身を隠すために京都へ出奔し、一橋家の徳川慶喜に仕えることとなるのです。
※文武両道に励み、尊王攘夷思想に傾く【渋沢栄一の生涯を知る1】
2:パリ万博への随行で見聞きしたことが、のちのビジネスのヒントに
渋沢栄一が一橋家に仕えて2年後、慶喜は15代将軍に就任します。その直後、慶喜の実弟・昭武がフランスで開催されるパリ万国博覧会に派遣されることが決まり、栄一は経理・庶務全般の担当として随行することになりました。
公式行事への随行はもちろん、銀行家・フリューリ=エラールによって、活気あふれるパリ市内の各所を案内されます。銀行や証券取引所、病院、福祉施設、植物園などの娯楽施設、さらにはガス・水道の近代的なインフラ構造を視察したことが、その後に手掛けるビジネスへとつながっていくのです。
※パリ万博使節団に加わり、資本主義の実態に触れる【渋沢栄一の生涯を知る2】
3:明治新政府に仕えた2年間で200件もの企画を立案
徳川幕府が崩壊したことで、急遽帰国した栄一。静岡に蟄居していた慶喜に静岡藩の財政再建を任され、銀行と商社を兼ね合わせた「商法会所」を立ち上げます。
その後、明治新政府に仕え、有能な若手を集め、新しい国造りのプランを作成します。省庁横断で立案された企画は、わずか2年間で200件も! 郵便制度をはじめ、いま私たちの生活基盤となっているもののほとんどが、この時期に計画されたというから驚きです。
※明治政府の「改正掛」として新生日本の姿を描く【渋沢栄一の生涯を知る3】
4:みずほ銀行、王子ホールディングス、帝国ホテル…、栄一が設立に携わった会社は約500社
栄一が大蔵省を辞めた理由は、新政府で立案したプランを実現する企業を起こすため。
退官してわずか1か月後、わが国初の民間銀行である第一国立銀行(現・みずほ銀行)を設立します。その後、栄一は東京株式取引所、東京手形交換所、東京興信所などの開設にかかわり、金融のインフラ整備を進めると同時に、製造業の設立にも取り組みます。その他、外国人をもてなすための施設となる帝国ホテル設立の発起人になるなど、渋沢栄一が生涯に関係した会社は約500社。その多くはいまも健在で、彼が“日本資本主義の父”と称えられる所以です。
※大蔵省を辞め、実業界に転じ、500近い会社を立ち上げた渋沢栄一【渋沢栄一の生涯を知る4】
5:民間外交を通じて、日米関係の改善に取り組んだのは60代から
60代になっても、栄一はとどまることを知りません。当時、アメリカでの日本人移民排斥が問題になっていましたが、栄一は日米の民間交流に乗り出します。明治42年(1909)には、栄一を団長とする渡米実業団が海を越え、約3か月かけて全米25州の60都市・地域を巡ります。その際、第27代大統領のウィリアム・タフトや、発明王のエジソンとも交流しています。
現在の東京・北区の飛鳥山に別荘地を購入し、国際交流の場に。ハワイ国皇帝カラカウァ、フランス大使ポール・クローデル、インドの詩人タゴール、中華民国の政治家・蒋介石など各界の重鎮たちが訪れました。
※日米関係の改善に取り組んだ渋沢栄一と「青い目の人形」【渋沢栄一の生涯を知る5】
6:実業家でありながら、篤志家として女子教育や福祉事業にも力を注ぐ
実業界の人材育成が急務であるため、産業の指導者育成のために商法講習所を設立します。講習所は東京高等商業学校へ昇格し、さらには専門に特化した商業大学である東京商科大学(現在の一橋大学)へと発展させます。
同時に、栄一は女子教育も支援し、日本女子大学校の校長に就任します。また、早くから福祉事業にも取り組み、浮浪者や孤児を修養する東京府養育院を設立、亡くなるまでの約60年間、院長を続けました。
※女子教育や福祉事業の先駆者でもあった渋沢栄一【渋沢栄一の生涯を知る6】
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幕末期から昭和初期までの長きにわたり、さまざまな分野で活躍した渋沢栄一。日本経済の基礎を築き、現在へとつながっています。新紙幣の顔としてふさわしい人物であることを改めて実感したのではないでしょうか。