藩主の14男から幕府大老にのぼりつめた井伊直弼
A:「たなぼた」が幕末の歴史を大きく動かしたのが、彦根藩井伊家の藩主交代劇です。彦根藩井伊家は土井家、酒井家、堀田家と並んで大老になる名家。第13代藩主井伊直中は15人の男子をもうけましたが、第14代藩主になったのが三男の直亮(なおあき)。直亮には実子が無かったので十一男の直元が養子となりました。それ以外の弟は他家の養子か、重臣の家を継ぐなどしました。最後まで残っていたのが十四男の直弼と十五男の直恭。ふたりが幼い頃に延岡藩内藤家の養子候補になりましたが、選ばれたのは十五男の直恭でした。直恭は内藤政義となり延岡藩主となります。
I:彦根城にいくと、城から少し離れた場所に「埋木舎(うもれぎのや)」という屋敷が残されています。直弼は17歳から32歳まで部屋住みとしてここで暮らしていたそうですね。
A:埋木舎は中級藩士の屋敷のような規模です。藩主の息子、藩主の弟とはいえ、養子のあてもなかった直弼は、ここで腐らずに精進の日々を送ったそうです。『逆説の日本史』第19巻「井伊直弼と尊王攘夷の謎」の記述がコンパクトにまとまっているので引用します。埋木舎で暮らす日々、直弼は趣味の分野に打ち込んだそうです。
(井伊直弼は)国学や歌道すなわち和歌や、茶道それに鼓などの風流の他に、武士として槍術、居合術も習った。いずれも「殿様芸」ではなく一流の領域に達し、特に茶道では一流を樹てるほどの名人となった。
この頃の直弼の仇名を「チャカポン」という。「茶」と「歌」と「鼓(ポンは擬音)」にうつつを抜かしている男という意味で、どう考えても褒め言葉ではない。もしそうなら、この時代の常識から見て「槍」や「居合」など武道に基づく異名になるはずだ。おそらくこれは、口さがない彦根藩士の悪口であろう。当然、それは直弼の耳にも入ったに違いない。だが、どうすることもできない。誰か一人がそう言っているのなら、その者を叩き切るという手も無いではないが、広まってしまってはどうしようもない。おそらく直弼はストレスの固まりになっただろう。
ところが、その「チャカポン」に幸運が巡って来た。「人間万事塞翁が馬」という中国の諺ほど直弼の生涯を象徴する言葉はない。
A:下手をすれば一生部屋住みという危機もあった直弼ですが、兄直亮の継嗣となっていた十一男の直元が亡くなってしまい、ただひとり残っていた直弼に藩主継嗣の座がめぐってきます。
I:まさにたなぼた。ほかの兄弟が養子先が見つかっていたため、ひとり部屋住みの身だった直弼にお鉢が回ってきたわけですね。
A:もし、十五男で延岡藩内藤家に養子になった直恭(内藤政義)ではなく直弼が選ばれていたらと思うと感慨深いものがあります。いや、逆に延岡藩の眼鏡にかなわなかった直弼が彦根藩を継ぐことになったと思うとちょっと衝撃的です。
I:紀州藩の徳川吉宗が、徳川宗家の将軍職を継いだように、第16代彦根藩藩主を継承した井伊直弼は風雲急を告げる幕末政局の中で大老職に就任するのですね。
A:たなぼたで昇進した人物は、いろいろ張り切ってしまうのでしょう。直弼は安政の大獄で多くの人の恨みを買ってしまいます。
I:道長も吉宗も直弼も何事もなければ平穏な日々を過ごしたかもしれないのに、激動の日々を過ごすことになりました。歴史って本当に面白いですね。
●編集者A:月刊『サライ』元編集者(現・書籍編集)。「藤原一族の陰謀史」などが収録された『ビジュアル版 逆説の日本史2 古代編 下』などを編集。古代史大河ドラマを渇望する立場から『光る君へ』に伴走する。
●ライターI:文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。『サライ』2024年2月号の紫式部特集の取材・執筆も担当。お菓子の歴史にも詳しい。『光る君へ』の題字を手掛けている根本知さんの仮名文字教室に通っている。猫が好き。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり