奥州藤原氏の仏教への深い帰依を物語る33体の仏像と、金泥と銀泥による膨大な「中尊寺経」を、『サライ』6月号引き出し付録で掲載する。
中尊寺金色堂 内陣諸尊
(ちゅうそんじこんじきどう ないじんしょそん)(表)
紺紙金字一切経 大般若波羅蜜多経 巻五百二十三(部分)
(こんしきんじいっさいきょう だいはんにゃはらみったきょう)(裏)
中尊寺金色堂は正面に中央壇、向かって左に西南壇、右に西北壇を設え、須弥壇内に奥州藤原氏歴代当主の遺体を納めている。
それぞれの須弥壇には、本尊の阿弥陀三尊像3体、地蔵菩薩像6体、増長天・持国天像の2体、合計11体を安置。全部で33体となるが、西南壇の阿弥陀像は他所から移されたもので、同壇の増長天は後補であるため、31体が造立当初の姿をいまにとどめている。
中尊寺は創建以来、栄枯盛衰を繰り返してきた。これはかなりの誇張であろうが、金色堂の須弥壇の板が朽ちて仏像が転倒したとも、14世紀の史料は伝える。その影響かはともあれ須弥壇の仏像は当初の配置から少し変わっている。
たとえば中央壇では、増長天・持国天の2体の材質や様式を子細に検討した結果、この二天像は初代清衡の時代よりあとの西北壇の二天像と入れ替わったものと推定されている。
しかし900年という金色堂の長い歴史に思いをはせれば、金色堂の御仏は33体で一心同体といえる。壇の異動はいわば一種の席替えと思えばいいのではないか。33体の金色の輝きに心静かに手を合わせたい。
金泥による「一切経」の書写
中尊寺の黄金文化は伝来する膨大な経典類「中尊寺経」にも見ることができる。そのなかでも金泥と銀泥で一行ごと交互に書写した『紺紙金銀字交書一切経』と、金泥で書写した『紺紙金字一切経』が代表的なもので、前者が清衡、後者が3代秀衡の発願という。
紺紙は紺色に染めた紙のことで、一切経とは経典類すべての総称である。
中尊寺の『紺紙金字一切経』は、もともとは5000数百巻を数えたと想定されるが、現在は2724巻が残り国宝に指定されている。『紺紙金字一切経』は、金泥をふんだんに用いた経文の見事さもさることながら、表紙裏の見返し絵は平安時代後期の絵画作品としてきわめて貴重だ。画題は経文の内容とは必ずしも一致せず、自由な構図で多彩な画題が展開されている。引き出し付録の「大般若波羅蜜多経 巻五百二十三」では如来に頭を撫でられて仏恩にひたる僧の姿や、塔を供養する者などが描かれている。
「大般若波羅蜜多経」は、唐の玄奘訳で600巻。古くは国家安寧や除災招福が祈願された。
文/田中昭三
※この記事は『サライ』本誌2024年6月号より転載しました。