娘・倫子の結婚に反対する
雅信は、康保元年(964)に生まれた娘・倫子を溺愛していたと言われています。倫子を天皇の后にするべく、高い教養を身に付けさせたそうです。しかし、倫子は藤原道長(倫子より2歳年下)に見初められ、彼との結婚を望むようになりました。
後に関白となり、栄華を極める道長ですが、この頃はまだ出世の見込めない末っ子でしかありませんでした。また、雅信にとって、権勢を振るう藤原氏は政敵にあたります。そのため、雅信は二人の結婚を猛反対したそうです。
そんな雅信を説得したのが、彼の妻・穆子(ぼくし)であると言われています。道長の大成を予見した穆子は、二人の結婚を支持したとされ、その甲斐あって、永延元年(987)、道長と倫子は結婚することとなったのです。
その後、正暦4年(993)7月29日に74年の生涯に幕を閉じるまで、雅信は左大臣として政務にあたったとされます。
雅信にまつわる逸話
天皇家の血を引く、高貴な雅信。和歌や蹴鞠(けまり)に秀でていたとされますが、とりわけ音楽に優れており、「一代の名匠」と評されるほどの実力だったそうです。催馬楽(さいばら、平安時代に流行した古代歌謡)を口ずさみ、和琴や笙(しょう、雅楽の管楽器)などに精通していたとされ、雅楽の基礎を築いた人物として評価されています。
また、平安時代後期の歴史書『大鏡』には、「親王たちの間で育ち、世間知らずだったため、朝廷の政務や儀式の際には人より早く参内し、作法を見習った」という旨を、雅信が語っていたと記されています。非常に実直な雅信の一面が垣間見える逸話ではないでしょうか?
まとめ
宇多天皇の孫であり、雅楽の基礎を築き上げた源雅信。残されている史実や逸話からは、娘思いで真面目な雅信を思い浮かべることができます。娘・倫子は温厚な性格で、道長やほかの家族たちとも仲が良かったとされますが、これは実直な雅信の教育あってのものだったのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『山川日本史小辞典』(山川出版社)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)