大坂冬の陣で講和の使者を務める
慶長19年(1614)、大坂冬の陣が勃発します。初の子・忠高は、徳川軍に属しました。しかし、常高院は豊臣方の使者として徳川方の阿茶局(あちゃのつぼね)との交渉役を務めるのです。冬の陣では、数度の折衝の上、和睦を成立させました。
元和元年(1615)大坂夏の陣でも、初は淀殿と家康の交渉の仲立ちをするため、駿府にまで出向きます。しかし、実りはありませんでした……。
それから18年後の寛永10年(1633)8月27日に没し、若狭常高寺(=現在の福井県小浜市)に葬られました。
まとめ
茶々、江と比べると目立つ存在とは言えないかもしれない、初。しかしながら、近親間の融和を最後まで計った行動力のある女性だったと言えるのではないでしょうか。心優しい女性であったと言われる初には、多数の侍女が仕えていたそうです。
戦国時代の終わりに、数奇な運命に翻弄された女性の一人とも言えますが、数少ない資料からは芯の強さをうかがい知ることができます。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/京都メディアライン
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社)