はじめに-初とはどんな人物だったのか?
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する初(はつ、演:田牧そら)は、近江(現在の滋賀県)小谷城(おだにじょう)主・浅井長政(あざい・ながまさ、演:中島歩)と、織田信長の妹・市(演:宮崎あおい)の間に生まれた女性です。のちに出家して「常高院(じょうこういん)」と号しました。
いわゆる「浅井三姉妹」の次女で、姉・茶々は豊臣秀吉の側室となった淀殿、妹は二代将軍・徳川秀忠の正室となった江(ごう、崇源院〈すうげんいん〉)です。
姉と妹に比べると、初はやや目立たない存在に思えるかもしれません。しかし、大坂の陣ではその家族関係を背景に、豊臣方と徳川方の間を行き来し、和睦の交渉にあたりました。
父・浅井長政、母・お市の方を相次いで失い、秀吉に引き取られた少女は、どのような人生を歩んだのでしょうか?初の生涯をたどります。
『豊臣兄弟!』では、浅井家の主筋にあたる京極家の当主である高次の嫁として描かれます。

初の生きた時代
初が生きたのは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、天下の主導者が次々と入れ替わった激動の時代です。
父の浅井長政は、当初は信長と同盟を結んでいましたが、のちに対立。天正元年(1573)、小谷城は織田軍に攻められ、浅井氏は滅亡しました。
その後、初は母や姉妹とともに信長の庇護を受けます。しかし、天正10年(1582)の本能寺の変で信長が死去すると、市は柴田勝家と再婚。三姉妹も母とともに越前(現在の福井県北部)北庄(きたのしょう)へ移りました。
ところが、翌天正11年(1583)、勝家は羽柴秀吉との賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いに敗れ、市とともに自害します。
こうして三姉妹は秀吉に引き取られることになりました。
初の人生は、幼いころから戦国の政争に大きく翻弄されました。そして、姉が豊臣家、妹が徳川家へ深く関わるようになると、初自身も両家を結ぶ重要な立場に置かれていったのです。
初の足跡と主な出来事
初の生年は不詳です。寛永10年(1633)もしくは寛永11年(1634)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
浅井長政と市の娘として生まれる
初は、浅井長政と市の娘として生まれました。生年ははっきりしていません。初は三姉妹の次女にあたります。「初」のほか「発」とも表記され、諱(いみな)は藤子とされます。
天正元年(1573)8月、織田信長の軍勢によって父・長政の小谷城が落ち、浅井氏は滅亡しました。
父を失った初たちは、母とともに信長に養われます。しかし、その暮らしも長くは続きませんでした。

左が初。
北庄城で母・お市の方を失う
天正10年(1582)、本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、市は柴田勝家と再婚しました。三姉妹も母とともに越前北庄城へ移ったとされます。

ところが信長の死後、柴田勝家と羽柴秀吉は織田家の主導権をめぐって対立します。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れると、秀吉軍は北庄城へ迫りました。勝家と市は城内で自害します。

三姉妹は生き残り、今度は秀吉のもとへ引き取られました。幼くして父を失い、さらに母も失った初にとって、秀吉は母方の家を滅ぼした人物である一方、その後の生活を庇護した人物でもありました。
京極高次に嫁ぐ
その後、初は従兄(いとこ)にあたる京極高次(きょうごく・たかつぐ)に嫁ぎました。
高次は近江の名門・京極氏の出身で、のちに近江大津城主、さらに若狭(現在の福井県南西部)小浜城(おばまじょう)主となった人物です。
初と高次の間には実子がなかったとされますが、初は高次の長男・忠高の嫡母となりました。
また、慶長3年(1598)8月には、秀吉から近江国蒲生郡(がもうぐん)のうち2,040石余を与えられています。
北庄城落城後に引き取られた少女が、成人後にも秀吉から独自の所領を与えられていたことは、初と豊臣家とのつながりを考える上で見逃せません。
夫・高次らと受洗したとも
『国史大辞典』(吉川弘文館)によれば、慶長7年(1602)、初は夫・京極高次や子らとともにキリスト教の洗礼を受けたといわれています。
戦国から江戸初期にかけて、キリスト教は有力大名やその家族にも広がっていました。初についても、そうした信仰との接点が伝えられているのです。
妹・江の娘を養女に迎える
慶長8年(1603)、初は徳川家康の命によって、妹・江が産んだ娘を養女に迎えました。
この娘も「初」といい、のちの興安院です。『国史大辞典』(吉川弘文館)によれば、誕生直後の産屋から養子として迎えたとされます。
そして後年、この養女・初は京極忠高と結婚しました。つまり初は、妹・江が嫁いだ徳川将軍家と、自らが嫁いだ京極家を婚姻によって結ぶ立場にもなったのです。
姉が豊臣家、妹が徳川家。そして自身は京極家。初の人生は、戦国末期から江戸初期を代表する有力諸家と複雑につながっていました。
夫の死後、「常高院」となる
慶長14年(1609)、夫の京極高次が亡くなりました。その後、初は薙髪し、「常高院」と号します。
夫の死後、静かに余生を送ったわけではありません。数年後には、姉の淀殿がいる豊臣家と、妹の江が嫁いだ徳川家が直接対決することになります。
常高院が歴史の表舞台で重要な役割を果たすのは、まさにこのときでした。
大坂冬の陣で、豊臣と徳川の和睦を仲介
慶長19年(1614)、大坂冬の陣が始まりました。
大坂城には姉・淀殿と豊臣秀頼がいました。一方、妹・江は二代将軍・徳川秀忠の正室です。さらに、常高院が嫡母となった京極忠高は徳川方に属していました。
まさに常高院の家族が、豊臣方と徳川方に分かれて戦うことになったのです。
『日本大百科全書』(小学館)によれば、大坂冬の陣で常高院は豊臣方の代表として、徳川方の阿茶局(あちゃのつぼね)と交渉を進め、和睦成立に関わりました。
また、『国史大辞典』(吉川弘文館)では、大坂の陣に際し、大御所・徳川家康の意向を受け、たびたび和議の使者を務めたとされています。
豊臣方にも徳川方にも親族を持つ常高院だからこそ、両陣営を行き来できたのでしょう。
常高寺を建立し、晩年を過ごす
その後、常高院は自身の所領のうち300石を、京極高次の養女で今出川宣季(いまでがわ・のぶすえ)の妻となった女性に分け与えました。
また、300石を若狭の常高寺(じょうこうじ)へ寄付したとされています。常高寺は、自ら建立した寺とも伝えられています。
寛永10年(1633)8月27日、常高院は没しました。ただし、没年には異説があります。京極家が編纂した『西讃府志(せいさんふし)』では、寛永11年(1634)8月27日に没し、享年66歳だったとされています。
法名は常高院松岩栄昌。本人の遺命によって、若狭の常高寺に葬られました。
まとめ
華やかな権力の中心に立った姉や妹とは違い、初は両者の間をつなぐ役割を果たした女性だったといえます。父母を戦乱で失った初が、晩年には戦う両家の和平を仲介した、その歩みは、浅井三姉妹それぞれの人生の違いを考える上でも、非常に興味深いものです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。
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写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)











