政権の座につき、外祖父として摂政に任命される

幸運にも、藤原氏の後継者になることができた道長。周囲の協力を得ながら、自身の権力をより強固なものにしていきました。一方で、道長は二人の女性を妻として迎え、子宝にも恵まれます。やがて、成長した長女・彰子(しょうし)を、一条天皇の中宮(ちゅうぐう、皇后とほぼ同格の后)につけました。

画面下が藤原道長。背を向けている女性が彰子。
『紫式部日記絵巻断簡』
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-12091?locale=ja

その後も、道長は娘たちを天皇の后にし、外戚(母方の親族)として権勢を振るいます。当時の貴族社会では、結婚した男女は妻側の両親と同居するか、新居に移り住むのが一般的でした。また、二人の間に生まれた子どもは、母方の親族によって養育されるなど、母方の縁は非常に重要だったのです。

そのため、外戚となった道長は、天皇の高い権威を利用して、思うがままに政治を行うことができたと言えるでしょう。娘たちを次々と天皇の后にし、後一条(ごいちじょう)・後朱雀(ごすざく)・後冷泉(ごれいぜい)の3代にわたって、絶大な権力を手にしたのです。

30年もの間、政界の頂点に君臨し、その後、息子の頼通(よりみち)にその座を譲ります。そして、続く頼通の時代も、藤原氏は栄華を極めることとなったのです。

道長が詠んだ歌の中に、「この世をば 我が世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へば」というものがあります。これは、権力の絶頂に達した道長が、光り輝く満月を見ながら詠んだ歌であるとされます。絶大な権力を手に入れ、全てを意のままに動かすことができた当時の道長にとって、恐れるものなど何もなかったのかもしれません。

道長にまつわる逸話と、紫式部との関係性

外戚として権勢を振るい、藤原氏の最盛期を築き上げた道長。政治家としては、目立った活躍はしていないものの、娘を次々と宮中に入れたことで、不動の地位を得ることに成功しました。一方で、失脚した政敵を厚遇したり、宮中のあらゆる情報を収集したりと、周囲を敵に回さないように気を遣っていたとも言われます。

また、仏教を厚く信仰し、祖先を供養するための寺を建立しました。晩年には、「この世の浄土」と称された法成寺を建立しています。上級貴族として生まれた道長は、文学にも精通しており、優れた歌人としても知られていました。

道長は、中宮・彰子の女房に選りすぐりの才女をつけ、女流文学の興隆にも貢献したのです。文学好きの道長は、彰子の女房・紫式部が執筆した『源氏物語』に特に関心を示し、彼女を後援していたと言われています。

また、道長は『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルであると言われることもあり、紫式部も彼のことを意識していたのかもしれません。その後の万寿4年(1027)、病に伏した道長は62年の生涯に幕を閉じることとなります。

道長と紫式部の関係について、詳しくは分かっていません。しかし、互いの魅力に関して、惹かれ合うところはあったのではないでしょうか?

まとめ

数々の偶然が重なり、時の権力者となることができた藤原道長。貴族社会の頂点に立った道長に敵う者は、誰一人としていなかったことが分かります。満月の夜、自身が詠んだ歌のように、華々しい人生を送り続けた人物であったと言えるでしょう。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/とよだまほ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本人名大辞典』(講談社)
『山川日本史小辞典』(山川出版社)

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