薩摩藩に復帰、新政府樹立に貢献する

元治元年(1864)、薩摩藩の公武合体運動が行き詰まると、隆盛は再び呼び戻されます。軍賦役に任命された隆盛は、京都での政治工作に従事。「禁門の変」で薩軍を指揮して勝利に導き、薩摩藩の地位を向上させました。

さらに、同年の「第一次長州征伐」では、長州藩の無血降伏を実現させ、隆盛の名は全国に知れ渡ることとなります。その後、幕府中心の改革を進めようとした将軍後見職・慶喜と薩摩藩の関係が悪化したことを受け、「第二次長州征伐」の阻止に乗り出そうとした隆盛。

慶応2年(1866)には、敵対していた木戸孝允との間に薩長同盟を結び、本格的に倒幕の準備に取りかかったのです。一方、将軍職に就いた慶喜は薩長の動きを警戒し、土佐藩の勧めで「大政奉還」を実行することに。依然として、国の頂点に君臨しようとする幕府に負けじと、薩長は「王政復古の大号令」を発し、幕府を介入させない新政府の樹立を宣言しました。

対立が決定的になった両者は、慶応4年(1868)1月、「鳥羽・伏見の戦い」で激突します。この戦いを皮切りに、一年以上続く「戊辰戦争」が勃発。この時、隆盛は東征大総督府参謀となり、勝海舟との会談によって、江戸城無血開城を成功させました。

鳥羽・伏見の戦いで、長州軍を視察する西郷隆盛(『戊辰戦記絵巻, 1870』より) 
中央部の、腰に手を当てた人物が隆盛。

そして、「戊辰戦争」に勝利した新政府軍による、新しい時代が始まることとなったのです。

征韓論で政府と決別、「西南戦争」で激突する

戦後、鹿児島へと帰った隆盛。明治4年(1871)、岩倉具視や大久保利通らは、政府強化のために隆盛を政府に召喚しました。明治政府の要職を務めた隆盛は、廃藩置県や徴兵制の導入などの改革に乗り出します。

しかし、岩倉使節団として海外を視察した政治家たちによる、欧化主義的な諸施策に対し、隆盛は不満を募らせることに。そのような中で、明治6年(1873)、日朝国交問題が緊迫してしまったのです。隆盛は、実際に朝鮮に渡り、平和的交渉をもって国交の正常化を図りたいと考えていました。

ところが、太政大臣・三条実美(さねとみ)は、隆盛の平和的交渉論を征韓論だと誤解してしまいます。隆盛の動きを警戒した実美は、帰国した岩倉具視と謀って、隆盛の朝鮮行きを阻止したのです。

結局、朝鮮に向かうことができなくなった隆盛は、政府に抗議の辞表を提出。同じく、政府に反発した板垣退助や後藤象二郎、江藤新平らとともに、下野することとなります。この時、隆盛と旧知の仲だった利通は、彼を何度も説得しましたが、二人が分かり合うことは最後までありませんでした。

鹿児島に戻った隆盛は、士族の子弟のために私学校を創設。軍事などを教えて過ごしていました。しかし、政府の政策に不満を募らせた士族は、各地で反乱を起こすようになります。隆盛の私学校に通う生徒たちも、これに触発され、明治10年(1877)に「西南戦争」が勃発することに。

最後まで政府と戦った隆盛ですが、戦いは政府軍の圧勝に終わります。武士としての意地を貫いた隆盛は、鹿児島城山で自刃し、51年の生涯に幕を閉じたのです。

まとめ

新しい時代を切り開いた指導者として、今なお多くの人々から愛されている西郷隆盛。近代化を推し進める新政府の政策を理解しつつも、自分の信念を曲げてまで従うことはできなかったのではないでしょうか? ただ、もし隆盛が利通の説得にほんの少しでも耳を傾けていれば、また違った結末が待っていたのかもしれません。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本人名大辞典』(講談社)
『山川日本史小辞典』(山川出版社)

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