はじめに-黒田長政とはどんな人物だったのか

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する黒田長政(くろだ・ながまさ)は、黒田官兵衛(演:倉悠貴)の子として生まれ、のちに筑前(現在の福岡県北西部)福岡藩の初代藩主となった武将です。幼いころには人質として羽柴秀吉(演:池松壮亮)のもとに置かれ、若くして各地の戦に参加し、やがて関ヶ原の戦いで大きな功績を立てました。

父の官兵衛が「軍師」として知られるのに対し、長政はみずから戦場に立つ武将として、また福岡藩の基礎を固めた大名として語られることの多い人物です。その一方で、朝鮮出兵での経験や石田三成(演:松本怜生)との対立、さらにキリシタンから晩年の禅宗帰依へといたる信仰の変化など、多面的な顔も持っていました。

この記事では、黒田長政が生きた時代と、その生涯の主な出来事をたどります。

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、官兵衛の人質として描かれます。

黒田長政
黒田長政

黒田長政が生きた時代

黒田長政が生きたのは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三人の権力者が入れ替わる、激動の時代でした。戦国大名同士の争いが続く中で、中央では信長が勢力を広げ、信長の死後は秀吉が天下統一を進めます。さらに秀吉の没後には、家康が主導権を握りました。

黒田家は、父・官兵衛が豊臣秀吉に仕えたことで大きく伸びた家です。長政もまた、その流れの中で育ち、豊臣政権の戦を支え、のちには徳川家康に従って大きく運命を変えました。

黒田長政の足跡と主な出来事

黒田長政は、永禄11年(1568)に生まれ、元和9年(1623)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。

黒田官兵衛の子として生まれ、秀吉のもとで育つ

黒田長政は、永禄11年(1568)12月3日、播磨国飾東郡姫路に生まれました。父は黒田孝高(くろだ・よしたか)、のちの官兵衛如水(以下、官兵衛)、母は櫛橋伊定の娘です。幼名は松寿丸(しょうじゅまる)、長じて吉兵衛と称しました。

黒田官兵衛
黒田官兵衛

天正5年(1577)、父・官兵衛が織田信長に属したため、長政は人質として信長のもとへ送られ、さらに羽柴秀吉に預けられて近江(現在の滋賀県)長浜で育てられました。

この経験は、長政のその後を考える上で非常に重要です。長政は、ただ黒田家の嫡子として育ったのではなく、幼いころから秀吉の近くで豊臣家中の空気に触れて育った武将だったといえます。

豊臣秀吉
羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)

秀吉の中国攻略で初陣を飾り、賤ヶ岳・小牧長久手でも武功を重ねる

長政が初めて実戦に出たのは、天正10年(1582)のことです。秀吉の中国攻略に従軍しました。

天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いにも、長政は参加しています。そして、この年の8月、河内国(現在の大阪府南東部)丹北郡のうちに初めて450石の領地を与えられました。若武者としての働きが認められたのでしょう。

史蹟 賤ヶ岳
史蹟 賤ヶ岳

続く天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、大坂にあって中村一氏らとともに和泉国(現在の大阪府南部)岸和田城を守り、根来・雑賀一揆の来襲を撃退して、さらに加増を受けています。

こうした積み重ねを見ると、長政は秀吉のもとで順調に武功を重ね、若くして有望な家臣として期待されていたことがわかります。

九州征伐では秀長のもとで戦う

長政と秀長の関わりで特に重要なのが、九州征伐です。長政は父・官兵衛とともに羽柴秀長軍に属し、豊後(現在の大分県)・日向(現在の宮崎県)方面を攻めました。

豊臣政権の中で、秀長は各方面軍を統率する大きな役割を担っていましたが、その配下で長政も実戦経験を積んだのです。父・官兵衛と並んで秀長の指揮下で動いたことは、長政にとって大きな経験だったでしょう。

豊臣秀長
豊臣秀長

豊前で父の所領を継ぎ、国人一揆に向き合う

九州平定後、黒田家は豊前(現在の福岡県東半部と大分県北部を占める地域 )へ移ります。そして天正17年(1589)、父・官兵衛が隠居すると、長政はその所領を継ぎ、従五位下甲斐守に叙任されました。

ただ、所領を継げばすべてが安定するわけではありません。豊前入国後は宇都宮鎮房を中心とする国人一揆を潰滅させています。新たに得た土地を実際に支配していくには、在地勢力との厳しい対立を避けて通れなかったのです。

文禄・慶長の役で大きな経験を積む

長政は、文禄・慶長の役にも従軍しました。文禄元年(1592)、朝鮮出兵に際しては肥前(現在の佐賀県及び壱岐・対馬を除く長崎県)名護屋城築城の惣奉行を務め、その後は大友義統とともに第三軍として渡海しました。

戦場では金海城、昌原城を降し、さらに黄海道へ進軍します。文禄2年(1593)には、小西行長が明軍に敗れたのを受けて、小早川隆景らとともに動き、碧蹄館(へきていかん)で明軍を破りました。

慶長2年(1597)の再出兵でも再び渡海し、梁山を拠点に蔚山(ウルサン)城の加藤清正、順天城の小西行長らを援けています。朝鮮の戦場での経験は、長政にとって大名としての器量を広げる機会になった一方、のちの人間関係にも大きな影響を残しました。

石田三成と対立する

その象徴が、石田三成との不和です。長政と三成は、朝鮮在陣中から不仲になっていきました。

この対立は、ただの個人的感情では片づけられません。秀吉没後の政局で、長政が家康方へ傾く大きな背景の一つになったからです。朝鮮の戦場で生まれた不信が、のちの関ヶ原へつながっていくのです。

石田三成
石田三成

秀吉没後、徳川家康に従う

秀吉が没すると、長政は父・官兵衛とともに徳川家康へ接近します。慶長5年(1600)には、保科正直の娘で家康の養女となっていた栄姫を継室に迎えました。

この婚姻関係も含め、長政が家康方に立つ意思はかなり明確だったと見ていいでしょう。もともと豊臣家中で育った武将でありながら、秀吉亡き後には家康に未来を見た。その判断の背景には、三成との対立や、豊臣政権内部の不安定さがあったと考えられます。

関ヶ原の戦いで東軍勝利に貢献する

長政の名を大きく高めたのが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いです。長政は家康に従い、東軍の勝利に大きく貢献しました。

特に有名なのが、小早川秀秋を東軍へ寝返らせる働きをしたことです。もちろん関ヶ原の勝敗は一人の働きだけで決まるものではありませんが、長政が勝敗を左右する重要な局面で動いたことは確かです。

この功績によって、長政は戦後、筑前一国52万石余を与えられることになります。ここに、黒田家は一躍大大名としての地位を確立しました。

関ヶ原古戦場 決戦地
関ヶ原古戦場 決戦地

福岡城を築き、福岡藩の基礎を固める

戦後、長政はまず名島城に入りましたが、やがて那珂郡警固村福崎に新しい城を築きます。その地を祖先発祥の地である備前(現在の岡山県南東部)福岡にちなみ「福岡」と名づけました。

慶長6年(1601)から築城を始め、豊前との国境沿いには若松・黒崎・鷹取・大隈・小石原・左右良の六端城も整えました。また慶長7年(1602)には領内の総検地を実施し、藩体制の確立に努めています。

大坂の陣と晩年

慶長19年(1614)の大坂冬の陣では、長政は江戸滞留を命じられました。豊臣恩顧の大名としての立場を幕府が警戒していた面も、うかがえます。翌元和元年(1615)の夏の陣では、少数の兵を率いて大坂へ登り、将軍・秀忠に従って参戦しています。

そして元和9年(1623)8月4日、秀忠の上京に先立って京都へ出た長政は、京都・報恩寺で没しました。享年56歳。遺骸は博多松原の崇福寺に葬られています。

信仰の変化にも揺れた生涯

長政の生涯を語る上で、宗教についても見逃せません。『新カトリック大事典』(硏究社)によれば、長政は天正15年(1587)ごろ、父の勧めでキリシタンとなり、洗礼名ダミアンを称しました。

当初は博多の教会堂建立を許可し、イエズス会修道院用地の寄進も行い、父・官兵衛の死後にはその遺言に従って博多の教会堂で葬儀を営んだとされます。ところが、元和年間に入ると幕府の禁教政策に従い、教会堂を破壊し、宣教師を追放し、キリシタン迫害へ転じました。

さらに晩年は禅宗に帰依したとされます。こうした変化は、長政個人の信仰だけでなく、戦国から江戸初期へ移る政治の現実を強く映しているかのようです。

まとめ

黒田長政は、黒田官兵衛の子として生まれ、幼くして秀吉のもとに預けられ、各地の戦で経験を積みながら成長した武将です。朝鮮出兵での活躍、石田三成との対立、そして関ヶ原での東軍勝利への貢献によって、ついに筑前52万石の大大名となりました。

しかし長政の重要さは、戦功だけにあるのではありません。福岡城を築き、藩の骨格を整えたことで、福岡藩の基礎を固めました。まさに「戦って勝った武将」であると同時に、「治めて残した大名」でもあったのです。

豊臣の世に育ち、徳川の世に家を残したその生涯は、時代の転換を生き抜いた武将の姿をよく伝えています。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

●取材・執筆/末原美裕

1300年の歴史を持つ京都に住むようになって早くも10年以上が経つ。「戦国武将の生き字引」を目指し、実際に武将たちのゆかりの地を訪ね歩きながら「日本史人物伝」「日本史事件録」などの記事を執筆している歴女。歴史好きが高じて『京都学問所紀要 鴨長明の世界』『京都学問所紀要 方丈記』(ともに賀茂御祖神社京都学問所)の書籍を編集。京都の奥深い歴史と文化を日々探究中。

note:@kyoto_monokaki Instagram:@kyoto_monokaki
Facebook:@kyotomedialine

肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)

 

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