三成と対立、家康に接近する
秀吉の死後、石田三成と折り合いが悪くなった長政は、家康に接近します。朝鮮出兵の際、長政の行動について、誤解されるような内容の報せを、軍目付(いくさめつけ、敵情探査や自軍の勤務状況を調査・報告する係)が秀吉宛てに送ったそうです。これに憤慨した長政は、彼らと通じていた三成のことも恨むようになったと言われています。
一方、長政と同じく、三成と対立していた家康。三成含む文治派(豊臣政権下で、主に政務を担っていた武将の総称)に対抗できる勢力を作るためには、仲間を集める必要がありました。そのため、家康は長政に労いの書状を送ったり、朝鮮出兵から無事帰国した長政を祝う手紙を父・官兵衛に送ったりと、好意的に接したのです。
その後、家康の養女・栄姫を継室として迎え入れた長政。慶長4年(1599)、福島正則(まさのり)や加藤清正(きよまさ)らとともに、三成を襲撃します。三成が自邸に逃れ、家康が調停したことで騒動は収まりますが、「関ケ原の戦い」以前から、三成に対する強い敵意を持っていたことが分かります。
「関ヶ原の戦い」で見せた、見事な策略
慶長5年(1600)、天下分け目の「関ヶ原の戦い」が勃発することに。家康率いる東軍に与した長政は、戦いを有利に進めるため、調略を担当します。「関ヶ原の戦い」では、東軍・西軍双方に有力武将が味方していたため、どちらにつくべきか迷っている武将も数多くいました。
そのため、判断に迷う武将たちを上手く味方に引き入れ、寝返らせないように戦略を立てることが、勝利の決め手となるのです。この時、家康は秀吉の元重臣・福島正則の動向を、特に気にしていました。正則は、反三成勢力の急先鋒で、彼が西軍に寝返ることで、多くの武将が西軍に流れてしまうと危惧したためです。
そのような家康の不安を払拭したのが、長政でした。「正則とは固い友情で結ばれているため、裏切るようなことは絶対にしない」と断言し、長政の言葉に救われた家康は、再び決戦への準備に取りかかったと言われています。
また、「関ヶ原の戦い」における長政最大の功績として、小早川秀秋の懐柔が挙げられるでしょう。秀秋の重臣・平岡頼勝(よりかつ)は、長政の父・官兵衛の姪婿で、長政とは義理の従兄弟の関係です。長政は、この人脈を利用して秀秋に接近しました。そして、西軍のふりをして布陣し、頃合いを見て東軍に寝返るように約束させたのです。
長政の戦略が功を奏し、東軍は万全の状態で決戦に挑むことができたと言えます。
家康から信頼された長政
長政の調略により、東軍は見事「関ケ原の戦い」で勝利を収めることができました。家康は長政に深く感謝し、筑前国(現在の福岡県)約52万3000石を与えます。祖先発祥の地(備前福岡)にちなんで、この地を「福岡」と名付けた長政。福岡城(現在の福岡県福岡市にある城)を築き、居城としました。
その後、元和元年(1615)の「大坂夏の陣」の際には、家康の三男・秀忠率いる軍に属して、従軍しています。最後まで徳川家を支え続けた長政でしたが、元和9年(1623)、秀忠の上京に先立って京都に上った時に体調を崩し、56年の生涯に幕を閉じることとなりました。
命の恩人とも言える長政に対し、家康は生涯感謝し続け、彼を深く信頼していたと言われています。
まとめ
父親譲りの優れた戦略で、家康を勝利へと導いた黒田長政。長政は遺言書の中に、「その気になれば九州から東に進軍して、家康を滅ぼすこともできた」という旨の遺言を残しています。もし、長政が本気で立ち向かっていれば、家康が天下を取ることはなかったかもしれません。
あえてそうしなかったのは、次の天下人は家康であると、誰よりも正確に見抜いていたからではないでしょうか?
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)