田沼意次のもとで大活躍する
江戸に渡り、素晴らしい才能を発揮した源内。当時、幕府随一のやり手として注目されていた田沼意次は、彼の才能に目をつけます。意次は、幕政を安定化させるべく、商業の発展に力を入れていました。蘭学を活用し、輸入品を国産化させることで、商業の発展につながると考えた意次は、源内の才能と知識を活かそうとしたのです。
また、源内自身も、意次の政策を支援していました。明和元年(1764)、秩父の中津川で石綿(アスベスト)を発見した源内は、これを使って火浣布(耐火織物)を作り、幕府に献上しています。その後も、意次の命で長崎に遊学したり、鉱山開発を行ったりと、「国益」を念頭に置いて活動した源内。
平賀源内と言えば、自由気ままに生きた江戸の天才と評価されることが多いですが、幕府の意を受けて自身の才能を大いに活用した人物という見方が正しいかもしれません。
万能人の衝撃的な最期
意次の政策を支援するべく、蘭学の奨励や輸入品の国産化を目指した源内。明和年間には、田村藍水に師事したことがきっかけで生涯の盟友となった蘭学者・杉田玄白(すぎた・げんぱく)とともに、毎年のようにオランダ商館長や通詞を訪ね、オランダ語訳の西洋博物書を積極的に入手しています。
明和7年(1770)、再び長崎へと赴いた源内は、洋風油絵の「西洋婦人図」や羅紗(らしゃ)の試し織りを持ち帰り、後に羅紗織りの国産化に成功します。同時期には、世相を風刺した談義本を刊行して、風流戯作本の先駆けとなり、自作の浄瑠璃も初演しています。
多方面での活躍により、脚光を浴びましたが、安永3年(1774)、秩父鉱山の経営に失敗し、苦境に陥ってしまいます。その2年後、かつて長崎で入手したエレキテルの修復に成功し、医療用具として普及させるべく後援者を募るも、期待できるほどの人材は集まらず、生活はすさんでいくことに。
世間への不満を募らせていた源内は、安永8年(1779)、酔った勢いで人を殺傷し、投獄されてしまいます。その1か月後、破傷風にかかった源内は、獄中にて52年の生涯に幕を閉じることとなったのです。
まとめ
多方面で素晴らしい才能を発揮し、現在もなお「天才」として高く評価されている平賀源内。自身の才能を大いに活かし、幕政を支えようとしていた一面もあったことがわかりました。最期は失意のうちに世を去った源内ですが、彼の突出した才能は、当時の人々の目には、あまりにも斬新すぎるものとして映っていたのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)