江戸時代中期、吉原の町に生まれ、出版という機構ひとつで時代を変えた男がいた。東に評判の看板娘がいれば行ってアイドルへと仕立て、西に画技持つ役者があれば訪ねて大首絵を描かせ、のちに綺羅星となる才を拾い集めて磨き上げ、弾圧にもくじけず、江戸の町につねに新たな流行を生み出し続けた。── 蔦屋重三郎。その息吹と仕事は今も生きている。
喜多川歌麿『吉原の桜』

貸本屋を営んでいた蔦屋重三郎が、最初期に出版したのが「吉原細見」である。「細見」とは有名処などを細かく案内した摺物を指す。「吉原細見」とはどのような本であったのか、棚橋正博さんに聞いた。
「今でいう町歩きガイドで、定期的に刊行され、情報を刷新。細見を開くと、客を案内する引手茶屋から、遊女屋や遊女の名と料金がランク付けされ、出入りの芸者までも記載されていました」

一冊あれば、遊びに出かけた吉原で困らない「タウン情報誌」である。吉原で生まれ、吉原大門前に店を構えていた蔦重は妓楼内の事情に通じ、取材記者としても優秀な働きをしたに違いない。
誌面のレイアウトも、通りを挟んで茶屋や遊女屋を記載し、まるで現在の住宅地図のような体裁である。これを片手に歩けば目的の店も探しやすく、蔦重の「吉原細見」は評判となり、江戸の出版界で活躍する足がかりとなった。


有名人に序文を書かせた
「吉原細見は正月と秋頃、年に2回発行され、そのたびに遊女の動向などを最新情報に更新していました。正月版を出し、その後変更があれば秋版で手直しするスタイルです」(棚橋さん)
見やすく、最新の情報が満載されている情報誌を、蔦重は巧みな手腕により出現させた。それは新たな読者を掘り起こし、吉原における細見の出版を独占するに至る。「吉原細見」には、平賀源内や十返舎一九などが序文を寄せていた。細かな情報に加え有名人に序文を書かせることで、さらに媒体としての信頼度を高めたのである。

解説 棚橋正博さん(近世文学研究者・77歳)

取材・文/宇野正樹 撮影/五十嵐美弥 資料所蔵/棚橋正博
※この記事は『サライ』本誌2025年2月号より転載しました。

