秀吉と対立、決死の「さらさら越え」
天正11年(1583)、対立が決定的となった秀吉と勝家による「賤ケ岳の戦い」が勃発。成政は勝家に与して戦いますが、秀吉が勝利することに。その後、成政は秀吉に降伏しますが、成政が忠誠を誓ったのは秀吉ではなく織田家だったのです。
三法師を後継者として擁立し、権力を持ちだした秀吉に不満を抱えていた成政。天正12年(1584)、家康と信長の次男・信雄(のぶかつ)が秀吉と戦う「小牧・長久手の戦い」が勃発すると、秀吉に反旗を翻しました。
成政は、秀吉側についた前田利家と激戦を繰り広げますが、あと一歩のところで家康と信雄が、秀吉と和睦してしまうのです。これに納得のいかない成政は、家康の説得を決意。真冬の立山連峰を越えて、家康のいる浜松城へと向かうことに。
「さらさら越え」として知られている出来事ですが、結局家康を説得することはできず、失意のまま再び越中国へと引き返すことになります。翌年、秀吉が10万の大軍を率いて越中国に侵攻したことを受け、勝算のない成政は秀吉に降伏してしまうのでした。
九州征伐にて活躍、悲劇的な最期
再び、秀吉に服従することとなった成政。「小牧・長久手の戦い」で秀吉を滅ぼす計画は失敗に終わりますが、秀吉が命じた「九州征伐」にて戦功をあげることに。これにより、成政は肥後国(現在の熊本県)45万石を与えられます。
しかし、成政の検地に反発した国人衆(その国の民衆のこと)が、国人一揆を起こしてしまうのです。一揆が勃発したのは、成政の統治に問題があったからだと責任を追及され、天正16年(1588)に尼崎(現在の兵庫県)にて切腹して果てました。
佐々成政の逸話
武勇に優れ、忠誠心の強かった成政。彼の性格を垣間見ることができる逸話に、浅井・朝倉討伐の後日談があります。浅井・朝倉氏を滅ぼした信長は、彼らの頭骨を漆で固め、色をつけた薄濃(はくだみ)を家臣たちに披露したそうです。
主君のすることに異議を唱える者はいませんでしたが、成政だけは信長を諫めました。「人道に外れたことをしていては、天下を治めることなどできないでしょう」と堂々と諫言した成政に信長は感心し、二人で政治について語り合ったとされています。
成政は、自分の信念に反することであれば、相手が誰であっても反論できる勇気のある人物だったと言えるでしょう。
まとめ
織田家に忠誠を誓い、最期まで戦い抜いた佐々成政。秀吉は裏切られてもなお、成政の命を奪わず家臣にしたことから、成政の実力を高く評価していたことが窺えます。逸話にも見られる通り、人情豊かで非常に度胸のある人物だったと言えるのではないでしょうか。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)