宇都宮釣り天井事件が発生する
元和元年(1615)、夫の信昌が61歳で亡くなると、亀姫は出家し、「盛徳院」と号しました。そして、若くして亡くなった長男・奥平家昌(いえまさ)の後を継いだ、家昌の長男・奥平忠昌(ただまさ)の後見役を務めることになったのです。
家昌は下野宇都宮の城主でしたが、嫡男の忠昌はわずか7歳と幼かったため、下総古賀藩(現在の茨城県古河市)に転封されることに。忠昌の代わりに宇都宮城城主となったのは、家康の側近を務めた本多正純(まさずみ)でした。
正純は、亀姫の娘婿の父を失脚に追い込んだ人物とされており、亀姫は正純のことを恨んでいたとされます。正純が宇都宮の城主を務めることに納得がいかなかった亀姫は、江戸幕府2代将軍となった弟の秀忠に、告げ口をしたと考えられているのです。
その内容が、「正純が城に釣り天井をしかけて、宇都宮城を訪れる予定の秀忠を暗殺しようとしている」というものでした。これを受けた秀忠は、宇都宮城には寄らず、正純を流刑に処して改易させたのです。
正純の失脚後、忠昌は宇都宮城に戻り、亀姫が願った通りの結果になります。そして、寛永2年(1625)、亡き夫が治めていた加納の地で、66年の生涯に幕を閉じることになりました。
まとめ
家康の娘として生まれ、奥平信昌と政略結婚をすることになった亀姫。宇都宮釣り天井事件に彼女が関わっていたかどうかは、現在でも意見が分かれています。しかし、もし関わっていたとすれば、かなりの気性の激しさを感じる半面、家族を思うゆえの強さも垣間見ることができるのではないでしょうか?
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本人名大辞典』(講談社)