長篠の戦いで、徳川軍を大勝に導く
定昌が長篠城の城主となってから間もなく、信玄の息子・武田勝頼が長篠城を包囲します。長篠の地は、以前より武田氏と徳川氏との間で争奪が繰り広げられた要所でした。勝頼は父の遺志を受け継ぎ、天正2年(1574)に、高天神(たかてんじん)城を攻略します。
そして、翌年の天正3年(1575)、勝頼が長篠城を包囲したことで、「長篠の戦い」が勃発することとなったのです。
大軍を率いた攻撃に対し、定昌は籠城して何とか持ちこたえている状態でした。陥落寸前になった長篠城を前に、家臣の鳥居強右衛門(とりいすねえもん)は、家康のいる岡崎へ援軍要請に向かいます。要請を受けて、信長と家康の援軍が長篠城に向かうことに。この朗報を伝えるため、すぐに引き返した強右衛門でしたが、途中で武田軍に捕まってしまいます。
強右衛門は大量の援軍が来ることを城内に向かって叫び報じたものの、武田軍によって磔(はりつけ)に処されることに。この知らせを受けた定昌は、死にもの狂いで城を守り抜き、援軍が来るのを待ちました。
そして、長篠城に到着した信長・家康の連合軍は、城の西方・設楽原(したらがはら)に馬防柵(ばぼうさく)を築き、鉄砲隊を指揮して武田軍に圧勝します。定昌が最後まで城を守り抜いたことで、戦国最強と名高い武田軍を破ることができたのです。
家康の長女・亀姫を正室として迎える
長篠の戦いでの功績を称えられた定昌は、信長から「信」の字を与えられ、名前を定昌から信昌に改名します。そして、信長の命で、家康の娘・亀姫を正室として迎え入れることになったのです。
その後、天正9年(1581)の「高天神城攻め」や、天正12年(1584)の「小牧・長久手の戦い」で戦功をあげた信昌。天正18年(1590)に、家康が関東に転封された際には、現在の群馬県にあたる上野(こうずけ)国に3万石を与えられます。
さらに、慶長5年(1600)の9月から翌年の3月まで京都所司代に任命され、本願寺内に潜伏していた西軍の敗将・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を捕えました。慶長6年(1601)には美濃国加納に10万石を与えられるなど、出世を果たし、同地で元和元年(1615)61歳で亡くなりました。
まとめ
激動の戦国時代を上手く切り抜け、家康のもとで出世を果たした奥平信昌。正室の亀姫との間に4男1女を授かり、その子孫は豊前中津藩主や武蔵忍(おし)藩主などになっています。決死の覚悟で長篠城を守り抜き、徳川軍を勝利に導いた信昌の血は、江戸時代にも続いていくこととなったのでした。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『世界大百科事典』(平凡社)