危機一髪の寺田屋事件、海援隊結成
薩長同盟締結の二日後、伏見の旅館「寺田屋」に宿泊していた龍馬は、伏見奉行所の役人に命を狙われることに。しかし、寺田屋の養女・お龍(りょう)の機転によって、難を逃れます。避難先の薩摩藩邸にて傷の手当を受けた龍馬。その後、お龍と結婚し、傷の療養も兼ねて日本初と言われる新婚旅行に出かけました。
その後、様々な場面で才覚を発揮した龍馬。龍馬の活躍ぶりに目をつけた土佐藩は、彼に近づこうとします。慶応3年(1867)、土佐藩の後藤象二郎は長崎にて龍馬と会談をすることに。倒幕という大きな目標達成のためには人手が必要であると考えた龍馬は、後藤と手を組み、土佐藩に復帰するのです。
これにより亀山社中は「海援隊」と名を改め、龍馬は海援隊隊長に就任しました。
大政奉還の提案、近江屋で迎えた最期
次第に武力倒幕を目論み始めた長州藩と薩摩藩。武力倒幕は避けたいと考えた土佐藩は、龍馬に対して何か良策はないかと相談します。これを受けて龍馬は、後藤象二郎に大政奉還を盛り込んだ8つの策を提案。「船中八策」と呼ばれるこの案に感銘を受けた後藤は、元土佐藩主の山内容堂(ようどう)にこれを進言しました。
その後、容堂が15代将軍徳川慶喜に大政奉還を建白し、慶喜がこれを受け入れたことで、10月14日に政権が朝廷に奉還されたのです。これにより、200年以上続いた江戸幕府は、その長い歴史に終止符を打つこととなったのでした。
大政奉還後も、龍馬は新政府の構想を考えるために各地を奔走する日々を送っていました。しかし慶応3年(1867)11月15日、33歳の誕生日の夜に京都の近江(おうみ)屋にて暗殺されてしまいます。龍馬暗殺の犯人は、幕府の見廻組(みまわりぐみ)という説が有力ですが、真相については未だにわかっていません。
まとめ
「世の人は我を何とも言わば言え、我が成すことは我のみぞ知る」。龍馬が青年時代に詠んだとされる歌です。誰に何と言われても、自分の信じた道を進むという意味にも受け取れるこの歌は、不可能を可能にした龍馬の生き様を表しているように思えます。
壮大な龍馬の歴史には脚色が目立つ部分も多くあるため、全てが事実であるとは言い切れません。しかし、龍馬が倒幕の立役者となって活躍したことで、日本は近代国家への第一歩を踏み出すこととなったという事実に関しては、疑いようがないと言えるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)