高知市五台山にある伊達兵部墓所。

高知市五台山(ごだいさん)。標高146m、高知市の街並みと浦戸湾を望む山は、公園、植物園として市民憩いの場として親しまれている。その山の中腹に 「伊達兵部」の墓がある。奥州の独眼竜伊達政宗の十男で一関藩(三万石)初代藩主伊達宗勝のことだ。なぜ、東北地方の大名が遠く土佐の地に眠っているのか?

* * *

10数年前、高知市を取材した際に、移動の車中から「伊達兵部の墓」という案内板が見えた。「なぜ、高知に伊達家の墓が?」と思ったが、取材予定が立て込んでいたため、やり過ごし立ち寄ることができなかった。今回、『鎌倉殿の13人』関連で、高知で討たれた源頼朝の弟希義の墓参をしたのを機に、伊達兵部の墓地にもお参りすることにした。

伊達兵部宗勝(1621~1679)は、独眼竜政宗が54歳の時に誕生した十男。政宗亡き後は2代藩主を務めていた異母兄忠宗が、万治元年(1658)に亡くなると兵部にとっては甥にあたる綱宗が3代藩主に就任する。そして、兵部39歳の万治3年に分地を受けて一関藩を立藩。三万石の大名になった。

兵部の名が歴史に刻まれることになったのは、江戸三大お家騒動と称され、作家山本周五郎の小説『樅ノ木は残った』で有名になった「伊達騒動」の当事者となったからだ。伊達騒動では、原田甲斐の主君として知られる。伊達騒動を簡単に振り返ろう。

万治三年(1660)、第3代藩主綱宗は、酒色に溺れるなど、幕府に藩主としてふさわしくないと断じられ、強制的に隠居させられた。第4代藩主となったのは当時2歳の亀千代(後の綱村)。藩祖政宗の十男伊達兵部と第2代藩主忠宗三男の田村宗良が後見人に任ぜられた。藩主が幼君だったこと、藩祖政宗の実子ということで、伊達兵部は藩政の実権を握ることになる。

それに反発したのが、一門の伊達安芸宗重。伊達安芸は、伊達兵部らの政策が悪政であると幕府に直接訴えたのだ。

土佐入りに従った七名の家臣

寛文11年(1671)幕府大老酒井忠清が、関係者を江戸に集め、事情を聞く場を設けたが、その席上、伊達兵部側近の原田甲斐が幕閣面前で伊達安芸を斬殺するという挙に出る。

伊達兵部が、遠く土佐藩山内家預けとなったのは、この騒動の責を負わされたためだ。

以降、伊達兵部は58歳で亡くなるまで8年間、土佐高知で過ごすことになる。

伊達兵部の高知入り、高知での暮らしぶりは、文化年間(1815~)に高知城下の商人が編纂した『南路志』に「伊達兵部少輔宗勝殿御預リ之事」として概要がまとめられている。『南路志』は、高知県立図書館デジタルギャラリーで全文の閲覧が可能なので同書の記述を参照しながら振り返ろう。

幕閣酒井忠清の屋敷で伊達兵部宗勝側近の原田甲斐が伊達安芸宗重を殺害したのは寛文11年(1671)3月23日。取り調べの後、伊達兵部の土佐藩預かりの処分が決まり、その身柄が芝の土佐藩邸に送られてきたのは、4月3日。

『南路志』には、藩邸に着いた伊達兵部に茶菓子が出され、夜には二汁七菜の食事が供されたと記されている。伊達政宗実子への配慮なのだろうか。土佐藩は、伊達兵部を手厚く迎えたようだ。

土佐藩邸で10日あまり過ごした伊達兵部は、4月15日に江戸を出立。5月6日には土佐に入った。江戸からは178人が随行。そのうち一関時代の家臣7名がそのまま配所に残り兵部の生活を支えた。

高知城下には、新たに普請した配所屋敷が用意され、寛文12年の4月からは、御扶助米5百俵と兵部と7名の家臣それぞれに衣類代も支給された。預かり人ということを考えれば、贅沢はできぬもののまずまずの暮らしができたと思われる。『南路志』には、茶や淡路糖などの差し入れがあったこと、身の回りの世話をする小坊主の採用が認められたことも記されている。

だが、仙台藩62万石を差配していた兵部にとって、制約の多い配所での暮らしは辛かったのだろう。土佐藩に来て8年後の延宝7年(1679)11月4日、病を得て58歳の生涯を閉じる。独眼竜政宗が成した十名の男子最後の生き残りであった。

一関から兵部に付き従い、配所でともに暮らした家臣(杉村孫右衛門、渋谷吉兵衛、西森清兵衛、曽根惣兵衛、大槻斎、瀧田小右衛門、千葉左五衛門=いずれも『南路志』の記載)は、土佐で亡くなった曽根惣兵衛以外の6名が兵部の葬儀を見届けた後、12月25日に土佐を離れ、全員仙台藩に帰参したという。

立木が伐採され、浦戸湾を望める

伊達兵部の墓所から望む浦戸湾。

兵部の死後、五台山の中腹に位置する場所に墓地が造られた。

中腹にある駐車場から徒歩5分ほどの場所にある。兵部が亡くなってからすでに340年以上、藩主を務めていた一関からも本藩仙台からも1000km以上離れた遠隔地。高知県内では必ずしも知名度が高くはない兵部の墓地は朽ち果てているのではないかとも想像して向かった。

ところが――。

木々に囲まれた墓所は、意外にも清掃が行き届き、まるで地元の藩主の墓所であろうかと思えるほど整備されていた。驚くべきは、墓石から海を望める区域の木々が伐採された跡があり、拓けた眺望から浦戸湾が一望できることであった。

「明らかに伊達兵部を顕彰する人によって整備されている」と思い、これは何か事情があるに違いないと、インターネットで検索をしてみると、「巌手一関龍馬会」の有志が、地元一関藩の初代藩主の事績を伝えるために整備していることを報じる岩手日日新聞の記事(2017年10月27日付)がヒットした。

坂本龍馬がつないだ高知と一関の絆

伊達兵部墓所を整備する「巌手一関龍馬会」の有志。(写真提供/巌手一関龍馬会)

 「巖手一関龍馬会(以下一関龍馬会と記載)」とはどんな団体なのか?

それを説明するには、「一般社団法人 全国龍馬社中」の存在に触れねばなるまい。同会は、〈坂本龍馬の「行動力と独創力」に学び、よりよき地域創りのために行動し、次世代を担う人材の育成を目的とする〉団体で、日本全国に136団体(海外11団体)を擁している。

加盟龍馬会のひとつである「巖手一関龍馬会」の発足は平成12年(2000)。一関市内で桜の植樹や地域おこしの提言、東日本大震災での義援金などの活動を行なう一方で、活動を通じて、高知市内の伊達兵部墓地の存在を知る。以下、「一関龍馬会」の佐藤馨代表の解説をもとに概要をまとめる。

伊達兵部が、地元一関藩の初代藩主という縁もあり、平成27年(2015)、「全国龍馬ファンの集い 高知大会」の際に「一関龍馬会」有志が、岩手県知事、一関市長らとともに墓参。墓地周辺の清掃や枝打ちなどの作業を行なった。平成29年(2017)には清掃活動、枝打ちをするとともに、一関から持参した「ミヤマシキミ」の植樹を行なった。

そして、令和3年、鬱蒼とした木々のために眺望がさえぎられていた現状を憂いた「一関龍馬会」が高知県と高知市に対して嘆願書を提出したところ、その思いを高知の龍馬会メンバーがくみ上げ、高知県、高知市に働きかける。その結果、樹木の伐採が許可され、墓地から浦戸湾の眺望が開けるようになったのだ。

『サライ』歴史班として、山城などの史跡で、「この木がなければ眺望最高ですね」「そうなんですが、なかなか伐採できないんですよ」という会話を幾度となく交わしてきた。

それだけに、龍馬会のネットワーク、メンバーの方々の行動力、受け入れた高知県、高知市の関係部署の英断に畏敬の念を抱かざるを得ない。

一関龍馬会の佐藤代表が語る。

「現在は多くの一関市民が、初代藩主伊達兵部宗勝公の墓所が高知にあることを知るようになりました。しかも兵部が預かりの身であるにもかかわらず、墓の規模も大きく、土佐藩で大切に扱われていたこともわかりました。高知市民の方々に感謝の念を持ち 、高知市と一関市の絆が深まっていることを実感しています」

坂本龍馬が結びつけた高知と一関の縁。龍馬の行動力に共鳴して、さまざまな活動を展開する人たちのエネルギーが、土佐で眠る独眼竜政宗十男伊達兵部宗勝の生涯に光をあてることにつながった。

高知と岩手一関とのご縁を結び付けた坂本龍馬。

構成/『サライ.歴史班』一乗谷かおり

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