切腹を命じられる
このまま何もなければ、信康は家康の後継者として江戸幕府の将軍になっていたかもしれません。しかし、不穏な出来事によって、信康は「未来の将軍」という地位どころか人生そのものを奪われることになります。
信康と妻である徳姫の間には、2人の子供が生まれましたが、いずれも女児でした。そのため、築山殿は徳川家の家臣(武田家の家臣という説もあり)・浅原(あさはら)氏の娘を信康の側室に迎え入れるのです。
徳姫がこれに反発。天正7年(1579)、徳姫は父・信長に「十二か条の訴状」を出し、信康と築山殿が武田氏と内通していると嫌疑をかけ告発をしたと言われています。一説には、信長が「徳川四天王」とも称される家康の老臣・酒井忠次 (ただつぐ) にその真偽をただしたところ、忠次が弁解しなかったので、信長は両人の処罰を命じたとも言われています。
ただし、信康が武田氏と通じていた、人柄が粗暴で多くの人から恐れられていたとする伝えは根拠が十分ではないという指摘もあるようです。いずれにせよ、徳姫から訴状がきっかけとなって、家康と信長の間で協議がなされ、信康と築山殿に対する処罰が決定しました。
信康は岡崎城を追われ、最終的に遠江の二俣(ふたまた)城に移され、そこで切腹させられます。享年21歳でした。
同じ時期に、母である築山殿も岡崎城から浜松城に呼び出しを受けて向かう道中、家康の命を受け家臣の野中重政 (のなか・しげまさ) の手によって、築山殿は佐鳴湖(さなるこ)の湖岸で暗殺されたのです。
平岩親吉の懇願
信康が武田氏との内通を疑われた時に、信康を助けようと奔走したのが徳川十六神将の一人である平岩親吉(ひらいわ・ちかよし)です。
親吉は、信康の傅役(もりやく)として長年面倒を見ていました。ある意味、「わが子」のように見ていたのかもしれません。この時、親吉は自分の首を差し出すことで信長に許しを請うたとも言われています。
しかし、事態を食い止めることはできず、信康は切腹。そして、親吉は蟄居謹慎に。その後、赦されて、再度家康に仕えました。
まとめ
信康は短い人生ではありましたが、天下人の長男としてさまざまな痕跡を歴史に残しました。もし、切腹を命じられることがなく生き続けていれば、江戸幕府の将軍としての信康が存在したのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)