京都を追われる

しかし、義昭は信長と対立していくようになります。政治の実権は信長にあったので、義昭は思うように政治ができませんでした。そして、天正元年(1573)、ついに浅井・朝倉・武田諸氏と結んで信長に対して挙兵しましたが、信長に敗れ、京都を追われることに。一般的にこの事件をもって、室町幕府は滅亡したと言われます。

備後鞆で再起を図る

京都を追われたあとも、義昭は再起をあきらめませんでした。京都から追放されたものの、まだ征夷大将軍の地位にあったのです。家康も含め諸大名に幕府回復を依頼し、天正4年(1576)には備後鞆(とも)に移住して、毛利輝元(もうり・てるもと)の支援を受けて、帰洛運動の拠点とします。また、輝元は副将軍に任命されました。

鞆は当時の海上交通の大きな役割を担い、要所でした。また、室町幕府の開祖である足利尊氏(たかうじ)が、南北朝の動乱時に鞆で軍勢を集結させるなど、足利家にとってはゆかりのある地であったと言えます。義昭の周辺には武家家臣・芸能集団・侍医など多くの随行者がおり、100人以上の関係者が鞆で生活していたそうです。天正15年(1587)までの11年間の政権を「鞆幕府」と呼ぶ意見もあります。

京都に戻る

天正16年(1588)、聚楽第行幸を機会に京都に帰った義昭は将軍を辞して出家し、昌山(しょうざん)と名乗りました。この時、既に豊臣秀吉が最高権力者として君臨しており、室町幕府は名実ともに終焉を迎えたのです。

その後、秀吉から1万石を拝領。晩年は御伽衆(おとぎしゅう)として秀吉の話し相手を務めていました。元将軍だったこともあって、秀吉から貴人として扱われたそうです。なお、義昭は朝鮮出兵の文禄(ぶんろく)の役では、肥前名護屋に従軍しています。

まとめ

義昭は室町幕府最後の将軍として、その終焉を飾りました。すでに実権はなかったものの、信長によって京都から追放された後も鞆で再起を図っていたことは驚かされます。そのような意志の強さといい、最後の将軍としてふさわしい人物だったのかもしれません。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/三鷹れい(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)

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