江戸幕府第8代将軍に就任
紀州藩の藩主として財政改革に乗り出していた吉宗に、再び転機が訪れます。享保元年(1716)、7代将軍の徳川家継(いえつぐ)が、わずか8歳という若さで病没してしまったのです。これを受けて、既に紀州藩主として声望の高かった吉宗が将軍家を継承することとなり、江戸幕府第8代将軍に抜擢されました。この時、紀州から家臣の加納久通(かのうひさみち)と有馬氏倫(ありまうじのり)を側用取次として連れていきます。
将軍となった吉宗は、まず新しい組織づくりに取りかかりました。側用人(そばようにん、将軍の命を老中に伝える役職のこと)を偏重する傾向にあった政治体制を改め、家康の時代への回帰を目指したのです。これにより将軍側近であった間部詮房(まなべあきふさ)、新井白石らを整理しました。
この時に吉宗が目をつけたのが、水野忠之(ただゆき)です。吉宗は、彼を老中(将軍の補佐役)に抜擢し、吉宗自らが政治を主導するようになりました。
享保の改革を開始する
吉宗は、紀州藩の財政改革と同じく、まず幕府の財政改革に着手しました。それまで贅沢の限りを尽くしていた幕府の財政は、もはや破産寸前。そして、大勢の夫人や女中が生活していた大奥が、財政難に拍車をかけていたのです。
吉宗は質素倹約を徹底し、幕臣の贅沢を禁じました。さらに、大奥の女中を大量に解雇して、大奥にかかる費用を大幅に削減することに。
また、吉宗は財政改革だけでなく、多くの改革を行います。それら全てが、江戸三大改革として知られている「享保の改革」です。無駄な支出を減らすことのほかに、収入を増やすことにも着目した吉宗は、治水事業や新田開発を奨励。参勤交代の期間を短縮する代わりに、一定量の献上米を大名に治めさせる「上米(あげまい)の制」を導入しました。
倹約と米価対策を重視した吉宗は、「米将軍」という異名を持ち、大衆文化にも寛容だったため、庶民的な将軍というイメージを持たれがちですが、財政改革のために庶民の生活を圧迫することもありました。その原因となったのが、収穫高を問わず、一定の年貢を治めさせた「定免法」と、農民に対する増税である「五公五民」です。
農民の負担が増加する中で、享保17年(1732)に「享保の大飢饉」が発生し、全国で餓死者が急増しました。これを受けて吉宗は、凶作に強いサツマイモの研究を進めるように蘭学者の青木昆陽(こんよう)に命じます。
また、生活する上で必要となる実学を奨励した吉宗は、産業や科学技術の発展にも貢献。その後、延享2年(1745)に長男の家重(いえしげ)が将軍職を引き継ぎ、隠居生活を送りました。68年の生涯に幕を閉じるまで、家康が築いた幕府を守るために奮闘したと言えます。
吉宗が行った様々な施策
吉宗は江戸城に目安箱を設置し、民衆の意見も積極的に聞き入れました。これにより採択された取り組みとして、無料の医療施設である「小石川養生所」の設置などが挙げられます。
ほかにも、デフレ対策として貨幣の流通量や金含有率を見直したり、寛保2年(1742)には統一的な裁判規範である「公事方御定書」を編纂し、裁判の迅速化に貢献したりと、あらゆる分野における問題を解決することに尽力したのです。
まとめ
将軍職とは無縁だったはずが、偶然が重なった結果、大出世を果たすこととなった吉宗。斬新かつ大胆な改革で、その名を世に知らしめました。民衆の生活を観察し、様々な経験を経た吉宗だからこそできたとも言える享保の改革は、その後の幕府に大きな影響を与え、現在でも高く評価されているのです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)