はじめに-徳川吉宗とはどんな人物だったのか

徳川吉宗(よしむね)は、江戸幕府第8代将軍です。家康の血を引いてはいるものの、「徳川宗家」と呼ばれる将軍家ではなく、御三家の一つである紀州徳川家の出身だった吉宗。さらに、跡継ぎとなる長男ではなく、四男だったため、将軍職から程遠いばかりか、紀州徳川家の当主ですらなかったのです。

将軍になることなど想定していなかった吉宗は、庶民の生活を見て回るなど、自由気ままに生活していたとされています。偶然が重なった結果、将軍となった吉宗は、それまでの制度を見直し、幕府を一から立て直すことを目標としました。

徳川吉宗像(徳川記念財団蔵)

テレビドラマ『暴れん坊将軍』の主人公として人気を博す、吉宗。幕府随一のやり手というイメージを持たれることも多いですが、実際の徳川吉宗はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。

2023年NHKドラマ10『大奥』では、未曾有の財政難に陥った幕府の再建に奮闘する紀州徳川家の2代藩主・徳川光貞の三女(演:冨永愛)として描かれます。(注:三女はドラマ内での設定になります)

目次
はじめに-徳川吉宗とはどんな人物だったのか
徳川吉宗が生きた時代
徳川吉宗の足跡と主な出来事
まとめ

徳川吉宗が生きた時代

徳川吉宗は、徳川綱吉が江戸幕府第5代将軍として政権を担っていた貞享元年(1684)に生まれます。吉宗が生まれた頃の紀州藩は深刻な財政難に陥っており、財政面の見直しを早急に行なわなければならない状況にありました。

紀州藩の藩主となった吉宗は、「質素倹約」を率先して行い、さらに将軍に就任してからも、それまでの幕府の体制を見直し、大胆な改革を試みたのです。

徳川吉宗の足跡と主な出来事

徳川吉宗は、貞享元年(1684)に生まれ、宝暦元年(1751)に没しました。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

紀州藩藩主・徳川光貞の子として生まれる

吉宗は、御三家の一つである紀州徳川家の第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれます。御三家とは、徳川将軍家に次ぐ地位を有していた親藩のことで、将軍家に男子が生まれなかった場合や、亡くなってしまった場合には、御三家から将軍を選出することになっていました。

しかし、吉宗の場合は四男だったということもあり、紀州藩の当主になることすら難しかったのです。元禄8年(1695)、12歳で元服した吉宗は、紀州藩邸を訪れた徳川綱吉から越前国(現在の福井県)丹生(にう)郡に3万石の所領を与えられますが、その後も和歌山城に留まり、城下に暮らす庶民の生活を観察するなど、比較的自由に生活していたのだとか。

紀州藩の藩主となる

宝永2年(1705)、吉宗の運命を変える出来事が起こります。紀州藩第3代当主となった長兄の徳川綱教(つなのり)が病没し、その後を継いだ次兄の徳川頼職(よりもと)も病没してしまったのです。二人には子どもがなかったため、必然的に弟の吉宗が当主となることに。

和歌山城天守閣

当主となった吉宗がまず取りかかった難題は、紀州藩の財政問題でした。当時の紀州藩は莫大な借金を抱えており、宝永4年(1707)に起きた宝永地震による被害額も相当なもので、まさに危機的状況にあったのです。

この危機から脱するべく、吉宗は「質素倹約」を目標として掲げ、自らも質素な木綿の着物を着るなどして、無駄な支出を減らす方針を打ち立てることに。さらに、しばしば城下を散策していた吉宗は、庶民の生活事情にも理解があったため、和歌山城の門前に「訴状箱」を設置して、庶民の不満や要望などを聞き入れようとしました。

これは後に江戸城にも設置される「目安箱」の原型です。吉宗は、身分の高い者のみで政治を行うのではなく、誰でも政治に参加できる環境を整える必要性があると考えていたことがわかります。

江戸幕府第8代将軍に就任。次ページに続きます

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