本多忠勝は家康につき、本多正信は一揆軍に加勢
家康の家臣団には一向宗の門徒もおり、主君か信仰のどちらを守るかで揺れました。本多忠勝(ほんだ・ただかつ)は宗旨を変えて家康につき、本證寺に頻繁に通っていた本多正信(ほんだ・まさのぶ)は一揆軍に加勢。
空誓上人は、自ら門徒を率いて家康と戦いました。空誓上人は怪力で、鎧を身につけ鉄棒を振り回し戦ったとも言われています。
家康と一揆側との戦闘は本證寺周辺でも行われました。この中で、一揆方の円光寺(えんこうじ)の住持・順正(じゅんしょう)が、空誓上人の身代わりとなって戦死。順正は「われこそは本證寺の空誓なり」と叫んだと言われており、空誓上人が一揆軍の中心人物であったことを印象付けます。
永禄7年(1564)には、一旦和議が成立。しかし、半年後には簡単に反故にされ、坊主軍の退去・寺の破却・禁教・守護不入の剥奪などが実施されました。堀も埋められ、土塁も削られ、もともと何もなかった野原の状態にまでされたともいわれています。
一揆軍のリーダーだった空誓上人は妻子を伴って菅田和(すげだわ=現在の愛知県豊田市)という場所に逃れ、一説には大きな洞穴に 20 年近く隠れ住んだといわれています。
赦免され、帰還する
しかし、そんな空誓上人にも転機が訪れます。一揆が起きて、20 年後の天正 11 年(1583)には、一向宗門徒が赦免され、続いて天正 13 年(1585)には、住持及び坊主衆の帰還が認められたのです。
これ以後、空誓上人は家康との関係を改善。本堂や伽藍の再建も順次進んでいくように。途中、空誓上人が家康の道場建立の許可を得たと書類を改ざんするなどのトラブルもありましたが、物事は平和裏に進んでいきました。晩年には家康から、尾張藩主となる家康・九男の義直(よしなお)を助けるよう依頼され、入封の際には清洲城に登城して祝辞を述べたとか。
先祖の蓮如について
空誓上人の先祖には、蓮如(れんにょ)という人物がいます。浄土真宗・本願寺の第8世宗主で、本願寺中興の祖と称されています。浄土真宗において、親鸞と並んで特に重要な人物です。蓮如の時代の本願寺はさびれていて、天台宗の末寺とみなされているような状態だったのです。
そこで、蓮如は本願寺を受け継いでから独自の布教活動を展開、親鸞の教えに立ち返り、御本尊の統一など様々な改革を行いました。また、北陸地方に移住、寺内町を建設し、布教活動に専念しました。
まとめ
空誓上人は本證寺を継いで、数年もたたないうちに一揆軍のリーダーとして家康と戦い、その後20年もの間、隠れ住む生活を強いられました。しかし、最終的には家康と和解し、本證寺の再興に力を尽くすことができたのです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)