歴史を動かす原動力はさまざまですが、お金をめぐる人々の行動をフォーカスしてみることで、人間の生き方が見えてきます。お金をめぐる人々の心情や行動から歴史を掘り下げるムック『経済でわかる日本』(宝島社)から、なぜ明智光秀は山崎の戦いで敗れたか、経済史家・横山和輝さんの見解をご紹介します。
監修/横山和輝(経済史家)
最適な決戦地を選んだ明智光秀
大山崎油座が有した経済力と権威は、戦国時代の大きな転換点に作用する一要素にすらなった。天正10年(1582)、本能寺で織田信長を討った明智光秀は新たな統治体制を構築すべく、朝廷や諸大名への工作を開始した。一方、毛利勢の城のひとつである備中高松城を攻略していた羽柴秀吉は、光秀謀反の報を聞くと、速やかに毛利と和睦を行い、いわゆる「中国大返し」を行った。
異様なほどのスピードで京都に迫る秀吉軍に対して、光秀が決戦の場として選んだのが、離宮八幡宮がある、大山崎油座の本拠地の山崎だった。
光秀が山崎の地を選んだのには理由があった。京都は盆地で周囲が山で囲まれているために侵入口は限られている。山崎の地は、天王山と男山に挟まれた隘路であり、最も狭い平地部分では幅が300メートルほどしかない。
光秀の軍勢は1万人から1万3000人、対する羽柴軍は4万人であり、光秀軍は地の利を活かすことで、数の上での劣勢を挽回しようとしたのだ。山崎のような狭い地形での戦闘となると、秀吉軍は大軍を投入できず、兵力差を活かすことができないためだ。
ところが実際に行われた戦いは、山崎の地よりも京都よりの平地で行われた。光秀は山崎の市街地を出て約3キロ離れた勝竜寺城に陣取ったのである。こうして秀吉軍は無傷で山崎の町を占拠した。そして秀吉軍は天王山に陣を敷き、山崎の隘路を抜けた平野部で、両軍は対決することになったのだ。
こうなると兵力で勝る秀吉軍が圧倒的に有利である。戦いはその日のうちに決着して光秀は撤退し、山科まで逃れたところで、落武者狩りに遭って命を落とした。
敗因は町合戦をしなかったこと
光秀が地の利を活かさずに平地で戦を行った理由の1つが大山崎油座と結んだ約束である。本能寺の変後、光秀は5通の禁制を出している。禁制とは、町の人々が戦争において被害を受けないよう、戦争を行う当事者と交わす約定で、市街地を非戦闘地域とする協定である。
光秀が出した禁制を最も早く得たのが、大山崎油座を中心にした山崎の人々だった。もちろん禁制を得るためには制札銭と呼ばれる多額の献金が必要になる。山崎の人々は光秀側だけでなく、秀吉側の織田信孝(信長の3男)からも禁制を得ている。いかに山崎の人々が経済的に力を持っていたかがわかるだろう。
ただし、町衆と禁制を結んであったとしても一方的に破られることもしばしばあった。兵力で劣勢である光秀軍が勝利するための最善の戦術は、山崎の市街での戦闘、つまり「町合戦」である。大軍を侵入させることができないだけでなく、見通しが悪く小隊で行動せざるをえない市街戦において、ゲリラ戦を展開できるからだ。町合戦が長期化すれば、形勢はどちらに傾くかわからない。しかし、光秀がこの町合戦の選択を取ることはなかった。
大山崎油座が大きな経済力を持っていたのは、荏胡麻油(えごまあぶら)が食用としてだけでなく燈明用の燃料とされたためである。山崎の荏胡麻商人は全国にネットワークを持っており、広範な情報網と経済力を有していた。光秀のその後の統治構想として、京都に近く、経済力と情報ネットワークを持った山崎の地を失うことを避けたことが、敗因の1つだったといえるかもしれない。
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『経済でわかる日本史』(横山和輝 監修)
宝島社
横山和輝(よこやま・かずき)
1971年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(経済学)。一橋大学経済学部助手、東京大学日本経済国際共同研究センター研究員を経て、現在、名古屋市立大学大学院経済学研究科教授。専門は金融論、経済史。著書に『日本史で学ぶ経済学』(東洋経済新報社)、『マーケット進化論』(日本評論社)、『日本金融百年史』(筑摩書房)がある。