歴史を動かす原動力はさまざまですが、お金をめぐる人々の行動をフォーカスしてみることで、人間の生き方が見えてきます。お金をめぐる人々の心情や行動から歴史を掘り下げるムック『経済でわかる日本』(宝島社)から、豊臣秀吉の経済政策をご紹介します。
監修/横山和輝(経済史家)
天下統一前からはじまった検地
天正10年(1582)、山崎の戦いで明智光秀を討った豊臣(当時は羽柴)秀吉は、早くも山崎周辺の寺社地から土地の台帳を集め、土地の権利関係を確認している。これがのちの太閤検地へとつながっていくことになった。
検地とは、土地の面積を正しく測定し、かつその土地の税を支払う者が誰かを明らかにするプロジェクトである。戦国時代は戦国大名が自らの領国内のみを管理したため、資源の再配分が行われていなかった。そのため、豊作と凶作の地域がそれぞれあっても、米を融通することが難しかった。こういった資源の不均衡が、村落や国同士の争いを生んでいた。
天正年間(1573〜1592)に秀吉は、大名同士の私闘を禁じる「緫無事令(そうぶじれい)」を出しているが、これを実現させるためには戦の原因となる資源の不均衡を是正する必要があった。そのためにも、どこでどれだけの米が収穫できるのかを把握することは重要だったのである。
太閤検地により、村落にどれだけの田畑があり、どれだけの生産力があるのかが全国的に記録されるようになった。田畑の面積と石高(収穫量)、耕作者(租税負担者)は検地帳に記載された。
米1石は大人1人が1年間に食べる量を指す。大名の力を「○万石」などと石高であらわすのは、石高が、土地の生産性をもとにして動員可能な軍事力の大きさを示すとともに、農民への年貢負担を示すものであったからである。こうして、村落民の年貢負担や大名の軍役負担は石高によって算出された。
ばらばらだった単位を統一
太閤検地は単に土地の測量以上に大変な一大プロジェクトだった。なぜならば、戦国時代の度量衡(長さ・体積・重さ)は地域によってばらばらだったからである。同じ1尺(長さの単位)であっても地域差があったのだ。そのため、数字上は同じ面積であっても、実際の広さが異なることが多くあった。
そこで秀吉は、度量衡を統一した。そして、6尺3寸(=1間=約1・92メートル)の検地竿を用いて、1間四方を1歩、そして、1町=10段=100畝=3000歩とした。次に収穫量だが、米の量を測定する升は京枡に統一された。京枡は、1辺約15センチ、深さは約8センチで、1石=10斗=100升となる。また1石が取れる面積は1段(300歩)とされた。
もっとも田畑によって、1段の収穫量が1石を上回ることもあれば、下回ることもある。そのため、田畑の収穫能力に応じて、上・中・下の3ランクに分類した。上田は1石5斗、中田は1石3斗、下田は1石1斗が収穫できる田とした。このように、年貢率も田のランクによって異なっていた。
海外貿易の許可制度
度量衡を統一したことで、日本各地で円滑にビジネスが行えるようになったが、移動の安全が保証されなければ経済は活性化しない。そこで秀吉は、海賊禁止令を出している。当時の瀬戸内海は、村上氏などの海賊衆が勢力を持っており、通行税などを徴収する代わりに航行の安全を保証していた。秀吉はこれらの海上権益を剥奪し、自由な航行と安全を保証した。これによって海上物流が活性化した。
秀吉は、海外貿易も積極的に行った。天正18年(1590)に関東の小田原北条氏を平定して、天下統一を成し遂げた秀吉は、日本との交易の窓口を閉ざし続けた明との貿易から、九州の諸大名が行っていた東南アジアとの貿易に注目するようになる。秀吉は、海外との貿易を許可制に切り替え、商人や諸大名には許可証である朱印状を発行した。
この朱印状がなければ、海外渡航を行うことはできなかった。東南アジアとの貿易は、いわゆる朝鮮出兵の最中にも行われ、文禄2年(1593)、朝鮮に出兵中の加藤清正は国許に貿易船の建造を命じ、銀と輸出用の小麦を積載した船をマニラに渡航させた。そして、高い利潤をもたらす生糸や絹織物などの絹製品や陶磁器を買い付けた。
このほか重要だったのが、銃弾の原料となる鉛である。鉛は当時の日本では多く産出できないもので、シャム(タイ)のソントー鉱山から産出された鉛がマニラを経由して盛んに輸入された。
例えば、大量の鉄砲が戦場に投入された長篠の戦いで使用された銃弾の成分分析を行ったところ、ソントー鉱山の鉛が使用されたことがわかっている。鉛の輸入は清正による命令というよりも、豊臣政権の意向によるものだろう。
秀吉の経済政策を見ると、度量衡の統一や海上交通の自由化など、日本のどこでも同じようにビジネスができる仕組みを構築したことがわかる。そして、これらのビジネスを豊臣政権が一元的に管理するシステムともいえる。
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『経済でわかる日本史』(横山和輝 監修)
宝島社
横山和輝(よこやま・かずき)
1971年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(経済学)。一橋大学経済学部助手、東京大学日本経済国際共同研究センター研究員を経て、現在、名古屋市立大学大学院経済学研究科教授。専門は金融論、経済史。著書に『日本史で学ぶ経済学』(東洋経済新報社)、『マーケット進化論』(日本評論社)、『日本金融百年史』(筑摩書房)がある。