「承久の乱」により佐渡へ配流

頼経の外祖父・高倉範季は判官(源義経)贔屓で知られている人物であり、外祖母兼側近の平教子(のりこ)は清盛の異母弟・平教盛(のりもり)の娘でした。すなわち順徳天皇は、幼時より反幕府的な環境の中にあったといえます。こうした環境や自身の性格から天皇は、父・後鳥羽上皇の倒幕計画には熱心に参与しました。承久3年(1221)4月には子・懐成に位を譲り、自らは上皇の立場に退いて倒幕に備えています。

そして後鳥羽上皇は、執権・北条義時追討の宣旨を発して挙兵。しかし、上皇方の予想を完全に裏切って、東国武士で追討令に応じる者はなく、逆に北条泰時らに率いられた幕府軍が大挙京都に攻め上ってきたのでした。その結果、追討令発布からわずか1か月後には、京都は幕府軍に占領されてしまいました。

こうして倒幕は失敗に終わり、父・後鳥羽上皇は隠岐の島へ配流されました。そして、順徳天皇もまた、佐渡へと配流の身になります。その後、在島21年で仁治3年(1241)9月12日、享年46歳をもって崩じたのでした。佐渡配流後、「佐渡院」と呼ばれましたが、建長元年(1249)7月には「順徳院」と追号されました。

『小倉百人一首』の100人目となる

『新勅撰和歌集』を編纂し、天皇とも交流があった藤原定家でしたが、幕府を憚り、順徳天皇の歌を一首も採択しませんでした。しかし『小倉百人一首』には「ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」という彼の歌が100番目として選ばれています。

この歌は鎌倉幕府との対立が深まった頃に詠まれたものであり、順徳天皇が20歳の頃だったと言われています。世の移り変わりの栄衰への気持ちが見事に詠まれ、憂悶する天皇の心境が広く後世に伝えられました。

「都忘れ」の伝説

「都忘れ」という花の名前は、順徳天皇に由来すると考えられています。「都忘れ」とは、キク科の多年草である深山嫁菜(ミヤマヨメナ)の別名です。4~6月頃に、中央が黄色で周囲が濃紫・紅・白色などの頭状花をつけます。

佐渡へと配流された順徳天皇は、御所周辺に植えていたこの花を見て、「いかにして 契りおきけむ 白菊を 都忘れと 名づくるも憂し」という歌を詠みました。都への思いを忘れよう、と詠んだ天皇の歌から、この花は別名「都忘れ」と呼ばれるようになったと考えられています。

まとめ

後鳥羽上皇の院政下で天皇となり、「承久の乱」の大敗により佐渡へと配流された順徳天皇。朝廷の頂点として長きにわたって院政を行った上皇の子として生まれ、幕府との対立の末に、都から遠く離れた島で生涯を終えます。その悲哀は彼が詠んだ和歌に込められ、後世に伝えられているのでした。

文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

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