義時を毒殺……?

「伊賀氏の変」の発端となった義時の死因には、いくつかの説があります。近習による刺殺などの変死説の他に、妻・のえ(伊賀の方)自身による毒殺説が伝えられているのです。藤原定家の日記『明月記』にこの毒殺について記録が残っています。それは事件から3年後、「承久の乱」の京方首謀者の一人・尊長(そんちょう)が発したとされるものでした。

この尊長は、陰謀にてのえ(伊賀の方)が将軍に据えようとした一条実雅の実弟です。事件に一役を買った人物の関係者であることから、この毒殺説は全くの作り話とも考えられません。少なくとも、のえ(伊賀の方)らが実雅を通じて「承久の乱」の京方の残党の動きと結びついていたことは十分考えられるところです。そうした点から、この紛争は「承久の乱」を勝ちぬいた義時指導下の幕政の弱点が明るみに出たものであるとも言えます。

義時の一番目の妻・八重(阿波局)

執権・義時はのえ(伊賀の方)と結婚する前に、二人の妻がいたとされます。その一人目が「八重」という女性です。ただ「八重」はあくまでNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』における名前であり、歴史的には「阿波局」という女性が該当します。彼女と義時の間に生まれたのが、後に3代執権となる北条泰時です。

彼女は源頼朝の最初の妻となった「八重」と同一人物ではないかという説があり、ドラマはこの説を採用しています。しかし、史実における義時と八重の関係は明らかにされていません。モデルとなった阿波局自身も、生没年月日、父親、母親が誰だったのかなどといったことは判明しておらず、その人物像はほとんど謎に包まれています。

なお、義時の妹にも「阿波局」という女性がいますが、同名の別人です。一番目の妻である八重(阿波局)とは別人ですので、間違えないよう注意しましょう。

義時の二番目の妻・比奈(姫の前)

義時の二人目の妻となったのは「比奈」という女性です。彼女は史実上では「姫の前」という名前であり、有力御家人・比企能員の姪にあたります。

当時、北条氏と権力闘争を繰り広げていた比企能員は、比奈を頼朝の側女にすれば、比企家の地位がより盤石なものになると画策。頼朝自身も若く美しい比奈を気に入りますが、政子の手前もあり、比奈を義時の妻に、と提案しました。この時、義時は前妻・八重を亡くして失意の中におり、頼朝のこの提案は義時を励ます狙いもあったとされます。

再婚をためらう義時でしたが、頼朝は彼に「離縁しない」という起請文を書かせて2人の間を取り持ちました。2人はやがて心を通わせ、子宝にも恵まれます。しかし、のちに北条家と比企家は権力闘争により激しく対立。建仁3年(1203)には「比企氏の乱」が勃発し、義時と比奈は離婚します。

そうして、義時はのえ(伊賀の方)を妻に迎えたのでした。

まとめ

北条義時の“第三の妻”となった「のえ(伊賀の方)」。彼女の名前が冠された政変「伊賀氏の変」や、夫・義時の毒殺疑惑なども存在することから、一筋縄ではいかぬ印象を受けます。権力闘争の手段としての結婚に収まらない、当時の女性の生きる姿が歴史の中から感じられるのではないでしょうか。

文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)

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