はじめに-二階堂行政とはどんな人物だったのか
二階堂行政(にかいどうゆきまさ)は、鎌倉時代の幕府官僚です。当初は朝廷に仕える下級貴族でしたが、頼朝の縁戚として鎌倉へと下りました。その後、「十三人の合議制」の一員となるなど、幕府における要職を歴任した人物です。
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、“十三人”の一人であり、鎌倉幕府を支えた実務官僚(演:野仲イサオ)として描かれます。
目次
はじめにー二階堂行政とはどんな人物だったのか
二階堂行政が生きた時代
二階堂行政の足跡と主な出来事
まとめ
二階堂行政が生きた時代
二階堂行政が生きた時代は、武士や貴族、天皇などの勢力が複雑に入り乱れた、平安後期から鎌倉初期に該当します。行政はもともと朝廷の官人を務めていましたが、頼朝との関わりにより幕臣となりました。彼は草創期の鎌倉幕府において、実務の中心を担うことで幕府を支えたのでした。
二階堂行政の足跡と主な出来事
二階堂行政は、生没年不詳の人物です。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
下級貴族の家系に生まれる
二階堂行政の生年は不明ですが、父は藤原行遠(ゆきとお)、母は熱田大宮司・藤原季範(すえのり)の妹だとされています。源頼朝の実母が熱田大宮司の娘であるため、行政の母は頼朝の縁戚にあたります。
京下り官人として、頼朝に仕える
当初は朝廷に仕える官人だった行政でしたが、母方が源頼朝の母の家にあたる関係からか、鎌倉幕府の文吏として早い時期から幕政に参画しています。元暦元年(1184)より鎌倉幕府の吏僚として活動を始め、同年10月には公文所(くもんじょ)の寄人となります。公文所は、頼朝が幕府の庶務一般を扱う機関として、公家の政所を模して開設したものでした。
また、文治5年(1189)7月の奥州合戦や翌年11月の頼朝入洛では、頼朝の側近にあって右筆(ゆうひつ)として文書作成にあたりました。
「二階堂」の姓を名乗る
奥州征伐を経て、頼朝は中尊寺(ちゅうそんじ)を模した寺院の建立を決意します。それは、源義経・藤原泰衡(やすひら)をはじめとする数万の怨霊をなだめ、冥福を祈るためでした。
永福寺(ようふくじ/えいふくじ)と名付けられたその寺の建立を任じられたのが、行政でした。彼は三善善信(やすのぶ)や藤原俊兼(としかね)とともに造営奉行に就き、建久3年(1192)11月、現在の神奈川県鎌倉市に寺院の本堂を完成させました。
その仏堂は、当時の鎌倉では珍しい壮大な2階建てであったことから“二階堂”と呼ばれていました。それまで「工藤行政」と名乗っていた行政でしたが、この寺の付近に屋敷を構えたため、それに因んで「二階堂行政」を名乗るようになったとされています。
政所の別当となる
建久2年(1191)正月には、公文所は政所(まんどころ)と名を改めました。初期の政所は、幕府の一般行政事務の管理と、鎌倉市中の御家人以外の訴訟および鎌倉市政を行う場でした。組織は別当を長官に、令(れい)・案主(あんじゅ)・知家事(ちけじ)から成ります。
発足当時の別当は大江広元(ひろもと)が就任します。行政も政所令に任じられ、その2年後には別当に昇任しています。大江広元が朝廷と幕府間の交渉で上洛するなどで不在だった頃には、彼に代わり行政が幕政における実務の中枢を担うようになりました。
その後の北条執権政治下では、政所の所掌は幕府の財政事務のみに限定されました。別当の役職は執権あるいは連署となり、二階堂氏は政所執事としてその事務を所管することとなります。
幕府の要職を歴任する
また、建久3年(1192)には、諸国の戸口・戸籍・租税・賦役などに関する事務を司る民部省の少丞(しょうじょう)という位に就きます。翌年には爵位を授かり、民部の大夫(たいふ)の位に就くなど、要職を歴任していきました。
正治元年(1199)1月に源頼朝が死去すると、その嫡男・源頼家が2代将軍に18歳で就任。青年将軍となった源頼家は、指導者として必要な判断力が十分に備わっていたとは言えず、彼を補佐する形で同年4月、「十三人の合議制」が発足しました。すると、行政はその1人に加えられ、幕府の中核を担いました。
幕政の第一線から退く
そのあと、行政は現在の京都府南東部を治める山城守(やましろのかみ)に任ぜられましたが、翌年の正月には同役職を辞任します。政所の下文(くだしぶみ=上位者から下位者に宛てた公文書)に二階堂行政の署名がないため、この頃までには、幕政の第一線から退いていたと考えられています。
二階堂氏のその後
行政が祖となった二階堂氏は、行政の孫・行盛(ゆきもり)以後、執事職を同氏が独占しました。子孫繁盛し、所領も相模、薩摩、三河、伊勢、肥前、陸奥などの各所に及んだとされています。鎌倉時代を通じ、幕府文吏系統の御家人のうち、最も重きをなした氏となったのでした。また、一族中で幕府や六波羅探題(ろくはらたんだい)の評定衆(ひょうじょうしゅう)、引付衆(ひきつけしゅう)などの要職に就く者が多く、その数は北条氏に次ぎました。
鎌倉幕府滅亡後も、建武新政府は二階堂氏の文吏系としての能力を重んじ、雑訴決断所の職員に列していました。室町幕府になってからも、評定衆の家格を保ち、初期には政所執事となり、また関東統治機関であった鎌倉府(関東府)の政所執事職にも同氏が就任しました。
このほか、陸奥の須賀川(すかがわ)の二階堂氏は、戦国大名として活躍しましたが、天正17年(1589)に伊達政宗によって滅ぼされました。繁栄を誇った二階堂氏も、江戸時代には衰えたとされています。
まとめ
文官としての才を活かして、鎌倉幕府の実務の中心を担った二階堂行政。彼を始祖とする二階堂氏はその後、鎌倉幕府の官僚を代々務める氏族となっていきます。その後の一族の活躍も合わせて、幕府の重臣として鎌倉を支え続けた存在であったといえるのではないでしょうか。
文/豊田莉子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)