やくざの権力闘争だと考えたらわかりやすい
I:今週も印象に残る台詞がありました。時政の〈坂東武者ってのはな、勝つためには何でもするんだ。名前に傷がつくぐらい屁でもねえさ〉です。
A:この時代の武士は、現代人が想起する武士像とは異なり、ざっくり言って「欲望のおもむくまま」に行動する集団。壇ノ浦合戦時に舟の水夫を射抜こうという義経の戦略が非難されたように、合戦時の作法はあったようですが、それ以外は、「やられたらやり返す」どころか「やられる前にやっちまえ」的な感覚で、火のないところに煙を立てて追い落とすということも。有体にいえば「暴力集団」もびっくりの存在ということです。
I:私も取材時に専門家の先生方から「この時代の武士は、今でいうやくざ同様」とか「実態は、北条組、三浦組、比企組なんですよ」という話を何度も耳にしました。
A:実際は、劇中の描写以上に、非情で不条理で凄惨な状況だったと思います。なにはともあれ、比企が丸腰で時政のもとを訪ねたのは失策でした。2005年の『サライ』鎌倉特集の取材で奥富敬之先生に鎌倉を案内いただき、比企能員邸跡の妙本寺も訪ねました。妙本寺は幕府御所跡からも徒歩圏内ですし、「合戦といっても、こんなに狭い範囲で行なわれていたんです」という言葉がことさら印象深かったです。
I:確かに義時邸跡に立つ宝戒寺なども近いですし。町内会の中で争っている感は否めないですね。そして、7月20日の発病以来、もう助かる見込みがなかったという頼家が奇跡の回復を遂げ、事態は複雑になります。
A:比企一族が討たれたのが9月1日。頼家がそのことを知ったのは9月5日と伝えられます。しかもすでに頼家が亡くなったという知らせを京に向けて発信した後でした。
I:佐藤二朗さんの熱演、怪演も相まって、ネットでは「比企憎し」の声があがっているようですが、「ちょっと待って!」といいたいですね(笑)。
比企族滅「小御所合戦」の真相
I:さて、北条と比企の苛烈な権力闘争ですが、最新の知見はどうなっているのでしょうか。
A:新進気鋭の研究者山本みなみさん(鎌倉歴史文化交流館)の『史伝 北条義時』は、『吾妻鏡』と『愚管抄』(九条兼実の弟慈円著)の記述の比較検証を通して論点を整理してくれています。〈まず『愚管抄』では、重病を患う頼家が危篤であると判断されると家督継承の問題が急浮上し、一幡を推す能員の優勢が動かし難くなったために、千幡を推す時政が能員を謀殺し、さらに比企一族を攻め滅ぼしたとする〉としたうえで、『吾妻鏡』の説を検証し、〈乱の勃発は一幡の家督継承が決定的となり、これを阻止すべく時政がクーデターを起こしたというのが真相である〉としています。
I:『史伝 北条義時』は、梶原景時失脚以降にページを多く割いています。ドラマを見終わってから読むと、「へー、そうなんだ」となることが多いですね。比企の乱も「小御所合戦」という呼称をするように提唱しています。
A:ところで、義時嫡男の泰時が、頼朝時代の義時の役回りになっているような感じがします。
I:となると、義時がさらにダークサイドに落ちる可能性がありますね。しかし、大河ドラマの主人公にして闇に落ちるとは……。
A:いやいや、こんな斬新な展開の大河はなかなかないでしょう。今後もさまざまな事件が起きますが、作者が各回どのような着地を見せてくれるのか、固唾をのんで、手に汗握って、わくわくしながら見守りたいと思います。
●編集者A:月刊『サライ』元編集者(現・書籍編集)。歴史作家・安部龍太郎氏の『半島をゆく』、鎌倉歴史文化館学芸員の山本みなみ氏の『史伝 北条義時』などを担当。初めて通しで見た大河ドラマが『草燃える』(1979年)。先日、源頼朝のもう一人の弟で高知で討たれた源希義の墓所にお参りした。
●ライターI:ライター。月刊『サライ』等で執筆。『サライ』2022年1月号 鎌倉特集も執筆。好きな鎌倉武士は和田義盛。猫が好き。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり