坂口健太郎アゲのエピソードで深まる謎
I:ここで気になったのが、北条頼時(後の泰時/演・坂口健太郎)が、生活が窮乏する農民の借金の証文を破るというエピソード。「なぜ唐突に頼時アゲのエピソードがぶち込まれるのだろう」というのが正直な感想です。
A:確かに、安達景盛の妻に懸想したり、御家人の土地境界争いを適当に処理したりした頼家の行動を見た後に、農民に善政を施す頼時が登場するのは不思議な感じがします。ただ、「懸想」や「境界争い」さらには「頼時の善政」のエピソードはすべて『吾妻鏡』所収のもので作者の創作ではありません。
I: 何か意図があるのですかね?
A:私は、一連の描写は作者から私たちに突きつけられたメッセージであり、強烈な挑戦状だと感じました。「頼家サゲ」「頼時アゲ」の場面を淡々とつなげるとどう感じるか?
I:『吾妻鏡』の編纂者の作為を感じるということですか?
A:そうです。この3本のエピソードを並べることで、「なんか胡散臭い」「頼家かわいそう」「作られたエピソードでは?」という風に感じたりしませんか? ここまで露骨に頼家を暗愚誘導する『吾妻鏡』には作為を感じざるを得ない。つまり、作者は「ほんとうに悪いのは誰だと思いますか?」というお題を私たちに突きつけていると感じました。そして、今後私たちは、その答えを探求する楽しみが増えたということにもなります。
I:誰が本当の悪か? だなんて、なんだか歴史ミステリーじゃないですか? 時政? 三浦? もしかして義時(演・小栗旬)?
A:「誰に感情移入しているか」やどんな本を読んでいるかで答えは違ってくるのだと思います。ただ、「ほんとうの悪」は、その人が悪とは悟られないまま善人として死んでいくともいわれます。『鎌倉殿の13人』では、いったいどんな風に「ほんとうの悪」を焙り出していくのか、それともそっとしておくのか。これは気になってしょうがない。
I:古畑任三郎にでも登場してもらいたい感じですね。きっと作者はあっと驚く着地を見せてくれるのではないでしょうか。
武士と公家とをつなぐ「共通言語」
A:今週も気になる台詞がありました。頼時を伊豆に行かせようとした義時と五郎時連(演・瀬戸康史)のやり取りの中で発せられた〈蹴鞠は遊びではございません。いずれ京へ上った時、公家と渡り合えるように、今から励んでいるのです〉。蹴鞠や和歌はこの時代の〈共通言語〉のようなものですから、確かに遊びじゃすまされない。
I:『麒麟がくる』の時にもそういう議論があったように記憶しています。和歌や茶の湯に秀でていた明智光秀は、その才を以て京の公家と対等に交流できたと。三重大藤田達生教授の『明智光秀伝』の受け売りですが……。
A:後年、大久保利通は主君に取り入るために碁を学んだといいます。いつの世にも権力者と親しくなるために、権力者との「共通言語」を習得するということが行なわれる。北条五郎時連の台詞は改めてそのことを気づかせてくれました。
I:ところで、平知康(演・矢柴俊博)が井戸に落ちる場面がありました。ここは作者自身が朝日新聞の連載(7月28日夕刊)で、知康が古井戸に落ちたという『吾妻鏡』の記述に着想を得たと記述していた場面です。
A:わざわざ深い井戸のセットを作ってもらったそうですね。こういうネタばらしは大歓迎です(笑)。ちなみに私は、『吾妻鏡』の該当部分の、井戸に落ちたという記述の後の〈しかれども存命す〉という個所が好きです。「古井戸に落ちたけど、生きていましたよ」って、現場の状況が目に浮かぶようです。
I:そして、ラストで戦慄のシーンが登場しました。全成が置き忘れた人形に誰かの手が伸びていきます。全成、痛恨のミスですね。
A:頼朝挙兵に集った兄弟で最後まで残ったのが全成。ああ、ついに全成が……、という思いです。来週が待ち遠しい。大河ドラマはこうでなくっちゃ!
●編集者A:月刊『サライ』元編集者(現・書籍編集)。歴史作家・安部龍太郎氏の『半島をゆく』、鎌倉歴史文化館学芸員の山本みなみ氏の『史伝 北条義時』などを担当。初めて通しで見た大河ドラマが『草燃える』(1979年)。先日、源頼朝のもう一人の弟で高知で討たれた源希義の墓所にお参りした。
●ライターI:ライター。月刊『サライ』等で執筆。『サライ』2022年1月号 鎌倉特集も執筆。好きな鎌倉武士は和田義盛。猫が好き。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり