2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公は、武家政権の基礎を固めた武士『北条義時』(演・小栗旬)だ。義時の周囲には、魅力的な女性たちが多くいた。そんな鎌倉時代の女性たちの紹介を通して、義時の周りに渦巻く人間模様を描いてみたい。
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北条時政(演・坂東彌十郎)の後妻で、義時の継母にあたる牧の方(りく/演・宮沢りえ)。幅広い人脈を持つ彼女は、時政との間に生まれた娘たちを東国武士だけでなく、京都の貴族のもとへも嫁がせている。
なお、時政と牧の方との間には、4人以上の娘がいた可能性があるが、今回は信憑性の高い史料から夫妻の娘と判断できる女性を取り上げた。したがって、続柄は便宜上つけたものもある。
鎌倉との縁を大切にした長女
1205年、時政と牧の方夫妻は、3代将軍源実朝を廃し、娘婿の平賀朝雅を擁立しようと謀った。この企みは、北条政子・義時によって未遂に終わり、夫妻は伊豆へ隠退、京都にいた朝雅は幕府軍に攻められて戦死した。この朝雅に嫁いでいた女性が、夫妻の長女である。
夫との死別後、長女は貴族の藤原国通(1176~1259)と再婚した。両親が鎌倉から追放され、夫も殺されたことを考えれば、政子や義時を恨んでもおかしくない状況である。しかし、夫の国通が幕府の推挙によって昇進し、義時や政子が亡くなる前後の時期にわざわざ彼女が関東へ下向していることを鑑みるに、異母姉兄との関係は良好であったようである。
さらに、1244年4月には、国通が亡き義時の孫娘富士姫を養子に迎え、7月には政子の20回忌供養を国通の有栖川邸で行なっている。姉兄が死去した後も、鎌倉との縁は途絶えていなかったといえよう。
なお、1227年正月、牧の方が時政の13回忌を行なったのも、この有栖川邸であった。長女は京都で、父時政や姉政子の菩提を弔っていたのである。
出世に利用された次女
次女が嫁いだ貴族三条実宣(1177~1228)は、歌人藤原定家に「時の美男」と称される容姿の持ち主で、かつ大変な女性遍歴を有する人物であった。次女との婚姻は、持明院基宗の娘、平維盛の娘に次いで三度目であるが、実宣がこのような女性遍歴を経たのは、婚姻関係を利用して出世するためであった。
婚姻関係が結ばれた1203年は、幼い実朝が将軍に擁立され、その後見として時政が台頭した時期である。したがって、実宣は幕府の有力者であった時政の娘を妻に迎え、自身の出世に利用したと考えられる。
次女は、1213年に男子を出産したが、その3年後に亡くなった。その死を知らせる飛脚が義時のもとを訪れると、義時は異母妹にあたることから喪に服している。
ちなみに、妻と死別した実宣は、藤原兼子の養女(源有雅の娘)と再婚し、さらなる出世を遂げた。したたかでたくましい貴族の姿を垣間見ることができる。
47歳で再婚した三女
三女は、武士の宇都宮頼綱(1172~1259)に嫁ぎ、女子と男子(泰綱)を産んでいる。長女と同様、政子が危篤に陥った際には、京都から関東に下向しており、姉妹の関係は良好であったことがわかる。
1233年、三女は47歳にして62歳の松殿師家(1172~1238)と再婚した。頼綱と離縁した時期や理由は不明であるが、前夫と娘に再婚を知らせる便りを送っている。中世前期は、離婚も再婚も比較的自由にすることができたから、この年齢での再婚も驚くことではない。
師家はこの5年後に亡くなるが、その後の三女の動静はわからない。
三女の娘は冷泉為家(藤原定家の息子)に嫁ぎ、男子を出産するが、ちょうど妊娠中に京都にやってきたのが祖母牧の方である。三女と身重の彼女を連れて遠出し、定家が心配したという話は前回で述べた。
定家は三女が前夫に再婚の報せを送ったことに対しても、「わざわざ便りをよこすとは」と日記に書き残しており、主体的に生きる祖母・娘・孫娘三世代の女性たちの言動に驚いている。
坊門家と鎌倉を繋いだ四女
坊門信清は姉の殖子(七条院)が高倉天皇の後宮となり、皇子(のちの後鳥羽天皇)を生んだことで台頭した貴族である。娘を後鳥羽の後宮に入れ、信清とその息子たちも後鳥羽の近臣として活躍していた。信清の次男忠清に嫁いだのが四女である。
1204年、将軍実朝はこの信清の娘を正妻に迎えるが、これより先、四女が忠清のもとに嫁いでいたことから、この婚姻が実朝の婚姻の前提となっている可能性が高い。実朝の婚姻の京都側の窓口は後鳥羽の女房藤原兼子、鎌倉の窓口は牧の方であったから、牧の方は京都との人脈を駆使して、二つの婚姻を実現したのである。
坊門家との婚姻によって、実朝と後鳥羽は義兄弟となり、朝廷と幕府の関係は深まることとなった。
牧の方の政治手腕
貴族と娘たちの婚姻関係が結ばれた1203年頃は、鎌倉で時政が権力を拡大させていた時期にあたり、急速に台頭する時政を牧の方のもつ人脈が支えていたといえよう。とくに、四女と坊門家の婚姻が実朝の婚姻の伏線になっていたことを考えると、牧の方が娘を京都の貴族に嫁がせたことは、時政を権威化するものであったに違いない。
鎌倉の将軍が京都から正妻を迎えるのは初めてのことであった。将軍家の婚姻を成功させ、公武融和をはかった牧の方の功績は大きいといえよう。
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山本みなみ/1989年、岡山県生まれ。中世の政治史・女性史、とくに鎌倉幕府や北条氏を専門とし、北条義時にもっとも肉薄していると学界で話題を集める新進気鋭の研究者。京都大学大学院にて博士(人間・環境学)の学位を取得。現在は鎌倉歴史文化交流館学芸員、青山学院大学非常勤講師。『史伝 北条義時』刊行。