北条政子歿後に京都遊覧旅行
1205年、政子の耳に時政・牧の方夫妻が3代将軍源実朝を廃し、娘婿の平賀朝雅を新しく擁立しようと企んでいるとの情報が入った。政子は急ぎ、実朝の身柄を父時政から弟義時の邸宅に移し、事なきを得た。計画の発覚を知った時政は出家し、伊豆に隠退したという。
この事件について、鎌倉幕府の編纂した歴史書『吾妻鏡』は、企ての首謀者を牧の方と記し、彼女ひとりを悪者に仕立て上げている。ただし、同書には北条氏に優位な曲筆が多く、かつ時政を首謀者と記す史料もあることから、慎重に吟味する必要がある。たとえ、この計画に牧の方の強い意向が含まれていたとしても、最終的な判断を下したのは時政であり、時政も牧の方と同罪と考えるべきである。
事件後の牧の方は、時政とともに伊豆に隠棲したと考えられる。
1226年11月、牧の方は上洛し、翌年正月23日、娘婿藤原国通の有栖川邸において、時政の十三回忌供養を執り行った。供養は、娘たちのほか、国通や冷泉為家ら公卿6名、殿上人10名、諸大夫数名が出席するという盛大なもので、牧の方のもつ人脈の広さがうかがえる。
さらに、供養の後には、宇都宮頼綱に嫁いだ娘と孫娘(冷泉為家の妻で妊娠7、8カ月か)を引き連れて、天王寺や南都七大寺に参詣している。歌人藤原定家(為家の父)は、嫁の体調を心配し、日記に「身重の女性を連れて行くとはいかがなものか」と不満を記しているが、牧の方にとってはどこ吹く風、親子三世代で遠出を楽しんだようである。すでに60代と推定されるが、なかなかパワフルな女性であった。
牧の方は人脈を駆使して、娘を京都の貴族に嫁がせた。こうして生まれた北条氏と京都との繋がりは、政治家時政を下支えするものであったといえる。1204年に成立した将軍実朝と京都・坊門家との婚姻も、牧の方の尽力によるところが大きい。 次回は、牧の方の政治的手腕に注目しながら、娘たちが歩んだ人生を紹介したい
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山本みなみ/1989年、岡山県生まれ。中世の政治史・女性史、とくに鎌倉幕府や北条氏を専門とし、北条義時にもっとも肉薄していると学界で話題を集める新進気鋭の研究者。京都大学大学院にて博士(人間・環境学)の学位を取得。現在は鎌倉歴史文化交流館学芸員、青山学院大学非常勤講師。『史伝 北条義時』刊行。