十一人 一人になりて 秋の暮 ── 正岡子規
きせんのりば碑、子規の句碑
松山と東京を、俳句でつないだ港
愛媛県松山市三津1丁目
交通:松山空港より車で約15分。三津浜港フェリー乗り場そば
三津の渡し
約500年前から運航。一茶も利用した渡し船
愛媛県松山市港山町
電話:089・951・2149(松山港務所)
営業時間:7時~19時(臨時運航あり)
休業日:無休
料金:無料
交通:伊予鉄道港山駅より徒歩約2分、伊予鉄道三津駅より徒歩約15分
松山市西部に位置する三津(みつ)は、かつて松山藩の御船手組み(船奉行所)が置かれた由緒ある港町。室町時代には水軍や城も築かれ、入り組んだ港は物資輸送や城兵たちの行き来で賑わったという。
その山城のあった港山町を歩いた。港山町と三津は港内にある渡し船「三津の渡し」で行き来する。三津と港山間約80mを結ぶ渡しだが、歴史は古く始まりは室町時代。江戸時代には俳人・小林一茶もこの渡しを利用したという。
一茶は寛政7年(1795)に、松山を20日ばかり来遊した。そのとき港山町の洗心庵(※洗心庵は元は尼寺。明治5年に廃寺となり、現在は港山の登り口付近に石碑が立つ。)で句会を催している。庵の近くには「亀水塚」と呼ばれる芭蕉没後百年の碑があり、一茶はそこに刻まれた芭蕉の句〈笠を舗(しい)て 手を入(いれ)てしる 亀の水〉を見て、翁を偲びこう詠んだ。
〈汲みて知る ぬるみに昔 なつかしや〉
その後も一茶は芭蕉の足跡を辿り、いくつかの句を残している。梅の花が咲く初春の来遊だった。
〈梅の月 一枚のこす 雨戸哉〉
若者の夢を紡いだ三津浜
江戸、明治の頃、松山と東京を結ぶ交通の拠点であり続けたのが三津浜だ。子規や漱石など多くの俳人たちが三津浜港から蒸気船に乗り、多くは神戸に向かい鉄道に乗り換えて東京を目指した。
「三津浜は、旅立ちと帰省の第一歩を踏み出す地。若者にとってはさぞかし懐かしい郊外の場所だったでしょう。子規たちは、よくこの港で遊んだといいます」(前出の青木さん)
明治24年、子規は虚子や河東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)と連れ立って、三津浜の料亭で作句を楽しんだ。〈初汐や 帆柱ならぶ 垣の外〉(子規の句。料亭の垣の外には、初汐(※海の潮が満ちるときに最初にくる潮。)が満ちて船の帆柱が座敷にいながら眼前に迫るかのように見えた)。
虚子は、夜が明けきらぬ朝市のせりの様子をこう詠んでいる。
〈短夜の ともし残るや 魚市場〉
先人たちの俳句に触れながら三津浜の海を眺めると、未来を夢見た若者たちの声が、すぐそこにあるような気がしてくる。
立ち寄り処
おはぎカフェ 旧鈴木邸CHAYA
文人墨客で賑わった三津の茶屋
愛媛県松山市三津1-3-13
電話:070・5510・3145
営業時間:12時~17時
定休日:木曜、金曜
料金:おはぎ150円、日本茶(ほうじ茶・煎茶など)500円~。
交通:伊予鉄道三津駅より徒歩約10分
取材・文/松浦裕子 撮影/茶山 浩 参考『愛媛 文学の面影 中予編』青木亮人著
※この記事は『サライ』本誌2022年8月号より転載しました。