文/池上信次
「映画発祥のジャズ・スタンダード」の紹介、今回はその5回目。紹介する曲は「酒とバラの日々(原題:Days Of Wine And Roses)」。ジョニー・マーサー作詞、ヘンリー・マンシーニ作曲です。日本のジャズ・ファン、ミュージシャンはプロアマ問わずみんな「酒バラ」と省略して言いますね。それに倣ってここでも以下「酒バラ」としましょう。
「酒バラ」は同名の映画『酒とバラの日々(原題:同前)』のテーマ曲。1962年度アカデミー賞の歌曲賞を受賞しています。監督はブレイク・エドワーズで、1962年の年末にアメリカで公開されました。エドワーズは『酒バラ』の前には『ティファニーで朝食を』で、『酒バラ』後は『ピンクの豹(原題:The Pink Panther)』とそのシリーズの監督としても知られます。いずれの音楽もヘンリー・マンシーニですね。
「酒バラ」は、映画公開直後から多くのジャズマンが取り上げ、ヴォーカル、インストともにたくさんの録音が残されています。この広がりの勢いは、ほかに例がないといってもいいくらい特別です。ポップスのアンディ・ウィリアムスが1963年3月にこの歌のシングルをリリースして大ヒットとなっていますので、一般にはそれがスタンダード化のきっかけかもしれませんが、ジャズではそれが理由ではないと思われます。映画公開翌年(とはいえ公開は年末12月25日ですが)1963年にリリースされた、この曲を演奏しているジャズ・アルバム列記してみます。多くて驚きます。カッコ内は録音日。
[ヴォーカル]
ペギー・リー『ミンク・ジャズ』(2月5日)(キャピトル)
ブロッサム・ディアリー『シングス・ルーティン・ソングス』(6月)(ハイヤーズ・ルートビア)
ジュリー・ロンドン『この世の果てまで』(リバティ)
ナンシー・ウィルソン『ハリウッド・マイ・ウェイ』(キャピトル)
パティ・ペイジ『セイ・ワンダフル・シングス』(コロンビア)
サラ・ヴォーン『ウィズ・ヴォイセズ』(マーキュリー)
[インスト]
マッコイ・タイナー『ブルースとバラードの夜』(3月4日)(インパルス)
ウェス・モンゴメリー『ボス・ギター』(4月22日)(リヴァーサイド)
ビル・エヴァンス『ザ・V.I.P.s・テーマ』(5月6日)(MGM)
アート・ファーマー『インターアクション』(7-8月)(アトランティック)
バーニー・ケッセル『コンテンポラリー・ラテン・リズムス』(リプリーズ)
ウディ・ハーマン・オーケストラ『アンコール』(フィリップス)
さて、こんなに大ヒットした曲ですから、映画のほうはいったいどういうものなのかと観てみました。
[この先、映画ストーリーのネタバレを含みますのでご注意ください]
「酒バラ」は、オープニングロールから流れます。編成はオーケストラをバックにした混声コーラスで、ゆったりとしたメロディが素直に歌われます。いい曲、いい演奏ですね。クレジットには、主題歌「酒とバラの日々」、作詞ジョニー・マーサー、作曲ヘンリー・マンシーニと大書され、音楽も売りであることが示されます。主演はジャック・レモンとリー・レミック。出会いから恋人へ、そして結婚という恋愛ストーリーで映画は進みます。いくつかの場面のバックで、ギターの演奏などでアレンジされたこのメロディが流れますが、音楽の使い方はとても控えめです。パーティのシーンでも(にぎやかな設定なので)使われません。映画でのこの曲のメロディの印象は、オープニングだけにあるといっていいくらいです。
この曲の歌詞をものすごく意訳して縮めると、「ワインとバラの日々(=幸福な日々)は逃げて行ってしまって、もう二度と戻ってこない」という感じなので、歌だけをとってみれば「失恋ソング」というありふれたジャンルにカテゴライズされることになるでしょう。オープニングでこれが流れるというのは、この恋愛ストーリーの行く先を暗示していることになりますが、ここでのこの「行く先」は、並の恋愛ドラマとはまるで違うのです。
主人公のふたりは、日々の生活のストレスから、ともに重度のアルコール依存症になっていってしまうのです。錯乱して暴れたり酒を盗むなんて程度ではなく、酔って家に火を点けてしまっても自分の依存症を認めようとしないほどの重症。断酒してもまた戻ってしまったりと、冒頭部の「軽めの恋愛もの」は、中盤から重苦しいシリアス・ドラマに様変わりします。劇中には、題名にあるワインなんか出てきません。ウイスキーやジンを何本もグイグイとラッパ呑みするレベルです。そして最後は……(ここだけは内緒)。
というわけで、「酒バラ」を「『酒バラ』の主題歌」としてみると、つまり映画を知る人にとっては、超重量級の絶望ソングにも聴こえてしまうのです。ひとたび「ああ、あのヤバいカップル……」のイメージが脳裏をよぎると、それを払拭するのにはけっこう厳しいものがあります。(インストはともかく)「失恋ソング」として歌っているヴォーカリストは、おそらく映画は観ていないのではないでしょうか。ストーリー的には、「ワインとバラ」という言葉から想像するタイプの華やかさもないですし(軽薄な広告会社が舞台)、その後は前述のとおりですから、観てたら歌えないですよ。と、まあそれは半分冗談ですが、歌には聴き手にもいろんな解釈の余地がある(というか、歌い手と聴き手にはズレがありうる)といういい例だとは思います。
「酒バラ」は映画発祥ではありますが、「映画の曲」を超えた「名曲」だからこそジャズ・スタンダードになった、とみるべきでしょう。
文/池上信次
フリーランス編集者・ライター。専門はジャズ。ライターとしては、電子書籍『サブスクで学ぶジャズ史』をシリーズ刊行中(小学館スクウェア/https://shogakukan-square.jp/studio/jazz)。編集者としては『後藤雅洋著/一生モノのジャズ・ヴォーカル名盤500』(小学館新書)、『ダン・ウーレット著 丸山京子訳/「最高の音」を探して ロン・カーターのジャズと人生』『小川隆夫著/マイルス・デイヴィス大事典』(ともにシンコーミュージック・エンタテイメント)などを手がける。また、鎌倉エフエムのジャズ番組「世界はジャズを求めてる」で、月1回パーソナリティを務めている。