東京・上野公園内にある彰義隊の墓所。

『青天を衝け』本編ではスルーされた幕府瓦解辞の江戸の混乱について、かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。

* * *

渋沢栄一(演・吉沢亮)や徳川昭武(演・板垣李光人)一行がヨーロッパ歴訪をしている間、日本では何が起きていたか、そして帰国後すぐ、渋沢が何をしていたかをまとめてみた。

日本を留守にした約1年10か月の間、250年以上にわたり日本の「公儀=政府」であった徳川幕府は崩壊し、時代は明治に移っていた。しかし、よくよく注意してみると、渋沢らが帰国した明治元(1868)年11月の段階では、まだ戊辰戦争は終わっていないことに気づく。

榎本武揚が率いる旧幕府軍は、蝦夷地で箱館政府を名乗っていた。箱館戦争に突入するのは翌明治2(1869)年4月頭で、箱館政府が降伏したのは5月18日のことだった。

元将軍の慶喜は恭順の姿勢を示して謹慎状態で、会津藩も降伏していたが、戊辰戦争の戦火はくすぶり続けていたのだ。

彰義隊→振武軍として新政府軍と戦う

この年譜に出てくる、渋沢平九郎(演・岡田健史)について触れたい。

平九郎は、渋沢家の親戚にあたる尾高家に生まれた。尾高惇忠(演・田辺誠一)や長七郎(演・満島淳之介)が兄で、栄一の妻となった千代(演・橋本愛)は姉にあたる。

栄一が徳川昭武に随ってパリに渡る際、幕府の規則によって急遽、栄一と養子縁組をしていた。当時は海外へ出張する幕臣は、遠い海外のことゆえ生死の程も定かではないことから、自分の後嗣(こうし)を指名して行くのが決まりで、これを「見立て養子」と呼んだ。栄一自身は平九郎のことを「義子」と書いている。

栄一の跡取りとなったことで、平九郎も幕臣の地位を得た。本人が残した書状によれば「米70俵の俸禄」を受けていたという。平九郎は明治元年1月、フランスに滞在中の栄一に「青淵(栄一の号)の大兄」と呼びかける手紙を出している。

「鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は薩長土に敗れ、徳川家は危急存亡の危機にあるので、至急、昭武を連れて帰国して欲しい」と訴える内容だった。

そのころ、栄一の従兄で、ともに一橋家に仕えて慶喜の信頼が厚かった渋沢成一郎(喜作/演・高良健吾)が、新政府の慶喜への処置に不満を募らせる旧幕臣たちのグループに加わり彰義隊を結成。その頭取となった。

彰義隊結成を主導したのは、旧幕府陸軍の中堅どころであった本多敏三郎と伴門五郎らであったが、彼らは仲間を増やして政治的な影響力を強めるため、慶喜の側近である成一郎を頭取に祭り上げたのだ。

このとき、平九郎の兄で栄一の師でもあった尾高惇忠も彰義隊に参加していたようだが、幕臣の身分ではなかったので、あくまでもオブザーバー的な立場だったと思われる。もし、栄一がパリに行かずに幕臣として江戸に残っていたら、恐らく成一郎とともに彰義隊に参加して、その幹部となっていたことだろう。

平九郎も、頭取の親戚ということで彰義隊に参加し、彰義隊の第一次編成で第二青隊の伍長となったという。具体的な役目は、江戸の治安維持のために市中を巡回することだったらしい。

しかし、やがて彰義隊は分裂する。もともと旗本や御家人、あるいはその子弟の寄せ集めという面があったからか、隊の統制は非常に不安定だった。

慶喜はすでに恭順の意を示していたので、慶喜本人もその側近の成一郎も、彰義隊の暴発を何より恐れていた。隊士のなかには薩長に対する怒りと憎しみに駆られた過激派もいれば、これを機会に名を挙げて、正式に幕臣(幕府は存在しないのだが)に取り立てられることを期待しているような不穏分子もいた。

そして、新政府の沙汰がくだり、慶喜が上野を離れて水戸に移ったことで、彰義隊はこのまま上野にとどまるか、それとも上野を離れて態勢を整えるかで意見が真っ二つに分かれてしまった。

ここで、頭取の渋沢成一郎と副頭取の天野八郎との間に亀裂が入り、ついに成一郎は自分を支持するグループを率いて彰義隊を脱退し、新たな旧幕臣グループを結成する。振武軍と名付けられたこのグループは、彰義隊との間で「新政府に降伏しない」「寝返りもしない」と約束を交わし、分派行動をとった。

平九郎と尾高惇忠も、成一郎とともに振武軍に加わった。彰義隊と袂を分かったとはいえ、徳川家再興や旧幕臣の身分保障が目的であったことに変わりはないので、振武軍は新政府に対する抵抗勢力として活動を始めた。

しかし、5月15日に上野戦争が勃発。長州の大村益次郎が指揮を執る新政府軍は、薩摩藩兵を主力として上野に籠もる彰義隊に攻めかかり、わずか1日で彰義隊を壊滅に追い込んだ。成一郎に替わって頭取となっていた天野八郎は江戸市中に潜伏を続けたが、7月13日に新政府軍に捕縛され、11月8日に獄中で病死する。

渋沢成一郎率いる振武軍は、彰義隊が新政府の攻撃を受ければ、直ちに駆けつけて共同戦線を張るつもりで、江戸の西、多摩郡田無村(西東京市)に駐屯していた。しかし、彰義隊があっけなく敗れてしまったため、その敗残兵を収容しつつ、態勢を立て直すために高麗郡飯能村(埼玉県飯能市)に移った。しかし、早くも5月23日には新政府軍が攻めかかる。この飯能戦争も、上野戦争と同じく数時間の戦闘で勝敗は決した。

振武軍は敗れ、渋沢成一郎と尾高惇忠らは上野国(群馬県)に逃れたが、栄一の養子平九郎は、農民に身をやつして逃亡中、追ってきた新政府軍の芸州藩(安芸広島藩)兵に見つかり、斬り合いになった。平九郎は奮戦したが、やがて敵弾で重症を負ったため、その場で自ら命を絶ったという。まだ満21歳の若さだった。

栄一が平九郎の死を知ったのは、帰国を果たしてから。すでに平九郎の死から5か月以上も後のことだった。

栄一はこの養子について、「風采、容貌ともに秀で、磊落な性格ではなかったが、誠に気立てがよく非常に剣術に優れていた」と語っている。

時を経て大正6(1917)年、平九郎の50年祭に際し、栄一は献辞を捧げている。そこには「見立て」とはいえ父子となった若者の早すぎる死を惜しむ真情が記されていた。

「明治戊辰のころを回想すると、感慨に堪えない。徳川幕府300年の権威も、一夜にして崩壊した。新政府の征討軍が江戸城に進軍してきたとき、幕府の旧恩にほだされて新政府に反抗したものも少なくなかった。(略)その志を思えば、いささか憐れむべきものがある。私の義子、平九郎もまた、その一人であった」(大意)


安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。

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