将軍就任後の慶応3年に撮影された徳川慶喜の写真。
(茨木県立歴史館蔵)
将軍就任後の慶応3年に撮影された徳川慶喜の写真。
(茨木県立歴史館蔵)

約260年にわたって日本の政権を担った徳川幕府。その最後に何があったのか? かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。

* * *

パリ万博への出席のために、徳川昭武(演・板垣李光人)の一行が横浜港を発ったのは、慶応3年(1867)1月のことだった。しかし、そもそもなぜ幕府はパリ万博に出展したのだろう。

当時の幕府を取り巻く状況は、まさしく火の車状態。慶応2年12月5日、徳川慶喜(演・草彅剛)は15代将軍に就任したが、それから20日後に孝明天皇(演・尾上右近)が崩御。第2次長州攻めの征長軍を解兵。事実上の敗北を認めた。

さらに、諸外国に約束した兵庫開港を、何としても朝廷に認めさせるため、慶喜は四苦八苦している。その間にも、大坂城でイギリス、オランダ、フランス公使と接見した慶喜は、なんとか幕府が日本を代表する中央政府であることを認めさせようと必死の努力をしていたのだ。

そんな状況で、なぜ万国博覧会に弟昭武を派遣したのか。

パリ万博の開催が決定したのは、日本では文久3年(1863)5月のこと。その2年後の元治2年(1865)2月に、万博の主催団体である帝国委員会が発足し、日本にも参加を求めてきた。しかし当初、幕府はこの誘いに乗り気ではなかった。

当時は14代将軍家茂(演・磯村勇斗)の時代だが、慶応元年(=元治2年から改元)7月に参加を表明したものの、幕府は商人に出展を任せるつもりでいたようだ。

しかし、商人による出展はなかなか決まらず、慶応2年(1866)2月の段階で、幕府は自らの出展を決定。各藩にも出展を呼び掛けたところ、薩摩藩と佐賀藩が応じ、さらに商人の吉田六左衛門、清水卯三郎も参加をすることになった。

現在の価値にして1200億円

左は村垣範正、中央が正使の新見正興、右は小栗忠順
安政7(1860)年に日米修好通商条約の批准書交換のため渡米した使節団の中に、小栗忠順の姿もあった(右)。左は村垣範正、中央が正使の新見正興

慶喜が将軍になったのは、その後のこと。まずは長州攻めの失敗で地に落ちた幕府の威信を取り戻す必要があった。

前述のように、各国公使と会見するのも、そのための一手だったのだ。当時の慶喜を支える幕臣のうち、幕政改革を率先して進めていたのは、親フランス派の小栗上野介忠順(演・武田真治)らだった。

小栗のプランは、簡単にいえばフランスの援助のもとで幕府軍の近代化をはかること、具体的にはフランスから多額の資金援助を受けることだった。そして幕府立て直しを図る慶喜は、この小栗プランに乗った。

慶応2年11月、幕府はフランスに大量の兵器を発注した。並行して、幕府のシステム、特に陸軍をフランス式に改める軍制改革を推し進めた。後ろ盾となったのは、小栗と昵懇の間柄であったフランス公使ロッシュだ。慶喜が小栗の計画に乗ったということは、フランスに幕府の命運を賭けたに等しい。

パリ万博への参加は、まさにその文脈でとらえる必要がある。パリ万博に将軍名代として昭武を派遣するのは、フランスとの関係強化はもちろんのこと、幕府への資金調達を確実なものにするための「実利外交」の側面があったのだ。

では、具体的に昭武の一行は、フランスからどのようにして資金援助を引き出そうとしたのか。普通に考えれば、フランス政府あるいは銀行などから、多額の借款、すなわち借金をするというのが常道だろう。

しかし、近年の研究では、幕府は「ファンド(投資信託)」を組もうとしていたということが分かってきた。銀行や企業あるいは地主や王侯貴族も含めて、複数の投資家たちから投資を募って幕府に資金を注入。幕府再建ののちに、その資金運用の成果をフランスの投資家たちにリターンするという目論見だったというのだ。

幕府がトータルでフランスから援助を受けようと目論んでいた金額は600万ドル。そのうち100万ドルは、すぐにフランスのオリエンタルバンクが貸してくれたので、残りの500万ドルを「ファンド」を組んで調達しようとしていたことになる。

この600万ドル(米ドル)が、現代に換算していくらになるかは非常に難しいが、明治初年に「1米ドル=1円=1両」とする決まりがあり、幕末の1両が現在の約2万円だったという計算があるので、600万ドルは現在の約1200億円ということになる。

当時、やはりフランスに滞在していた薩摩藩の使節団は、極秘とされていたこの幕府のプランについて、どこからか情報を得ていたらしい。もし幕府が600万ドルの巨額資金を手に入れれば厄介なことになると、警戒していたのだろう。

しかし、この計画は実現しなかった。折からフランスはメキシコの経営に失敗し、金融市場は冷え切っていた。幕府使節団の全権公使の向山一履(演・岡森諦)は、慶応3年(1867)7月末に、ファンドの計画が潰えたことを報告書に記して日本に送った。報告書が日本に届いたのは約2か月後、9月末から10月頭だと思われる。

慶喜が大政奉還を上表したのはその直後の10月14日。もしかすると、慶喜が政権返上というアクロバティックな手段に訴えたのは、ファンド計画の挫折がひとつのきっかけだったのかもしれない。


安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。

 

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