新選組との論争
新選組隊士(氏名は不明)は、大沢は剣の腕がたつらしい。自分たちは渋沢の護衛も任務のひとつなので、何かあっては危険だし、新選組の名折れとなる。まず自分たちが大沢を縛り上げるから、その上で罪状(嫌疑)を申し渡してほしいと主張した。
しかし渋沢は、それでは陸軍奉行の名代として来た自分の面目に関わると反論。陸軍奉行の名でまず捕縛命令を伝え、そのうえで縛り上げるのが正しい手順だ。陸軍奉行の命令を伝えるまでは、大沢は罪人ではないと反論した。
だが、もし大沢が事前にこのことを察知し、申し渡しの前に斬りかかってきたらどうすると新選組。それなら相手をするまで、心配ご無用と渋沢。あなたにそんなことができるのかと新選組。見くびってもらっては困ると渋沢。
実際には、深刻な議論ではなく、歩きながらの冗談半分のやり取りだったようだが、結局は渋沢の主張が通ったようだ。
呆気ない幕切れ
ところが、実際に渋沢と新選組のひとりが大沢の宅を訪ねて「大沢はいるか」と声をかけたところ、当人はすでに寝床に入っていたようで、寝間着姿で眠そうな顔をして現れた。渋沢たちも気勢をそがれただろうが、それでも「陸軍奉行の代理である」「国事犯の嫌疑で捕縛する」と申し伝えたところ、大沢は手向かうこともなく、おとなしく縛についた。
実に呆気ない幕切れだった。
渋沢の役目はこれで終了。大沢の身柄は新選組が預かり、京都町奉行に引き渡された。渋沢は夜中の3時頃、陸軍奉行の宿舎に足を運び、奉行にことの次第を報告した。
このときの陸軍奉行は溝口勝如という人物で、切れ者として知られていた。この夜も深夜まで渋沢の戻りを寝ずに待っていたのだ。事件の詳細を報告すると大変喜び、当座の褒美として渋沢にラシャの羽織を贈っている。
ちなみにこの溝口、のちに田安家の家老にまで出世。明治の世になり、長男を病気で失った勝海舟が徳川慶喜の末子精(くわし)を養子に欲しいと願った時、その仲立ちをしたという。
さて、このとき渋沢とともに大沢宅に入った人物だが、渋沢の証言では近藤勇とする場合と、新選組副長の土方歳三(演・町田啓太)としている場合がある。旗本ひとりの捕縛に局長がわざわざ出向くのも不自然なので、おそらく土方が同道したのだろう。
渋沢は、この大沢源次郎の捕縛について複数の談話を残しているが、そのうちのひとつでは、先の新選組との論争のとき、土方が「割合にも理屈のわかる人間」だったので、自分の主張に同意してくれて無事にことが治まったとしている。
そして、新選組と堂々と渡り合った(ただし剣ではなく、口で)ことが幕府陸軍の内部で評判となり、「渋沢というやつは、意地を通すやつだ」「案外、気骨のある男だ」といわれたと、ちょっと自慢気に語っている。
渋沢の言によれば、当時の新選組は飛ぶ鳥を落とす勢いで暴威を振るい、子どもが泣いていると「新選組がくるぞ!」と脅したという。そんな泣く子も黙る新選組と、そして鬼の副長こと土方歳三と、ほんのわずかではあるが対峙したというのは、後年の渋沢にとって青春の1ページとでもいうべき楽しい思い出だったのかもしれない。
安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。