脇坂安治は、慶長14年(1609)までの24年間、洲本城に在城。増改築を繰り返し、現在残る石垣は、脇坂時代に造られたものだと考えられています。

洲本城は三熊山山頂に築かれ、淡路島を一望できる

洲本城は三熊山山頂に築かれ、淡路島を一望できる

洲本城天守台の模擬天守は昭和天皇の即位を記念して建てられた

洲本城天守台の模擬天守は昭和天皇の即位を記念して建てられた

関ヶ原の戦いでは徳川家康に寝返る

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、脇坂安治は朽木元綱・小川祐忠・赤座直保とともに西軍として松尾山のふもとに陣取りました。関ケ原の南方、松尾山のふもとに「脇坂安治陣跡」が残ります。しかし、松尾山に布陣していた小早川秀秋隊が寝返ると、四隊とも心が変わり、隣に布陣していた西軍の大谷吉継隊を攻撃。東軍の勝利に影響を及ぼしました。

しかし、戦後処理では寝返った朽木元綱は減封、小川祐忠・赤座直保は改易の処分となります。にも関わらず、脇坂家は処分を受けずに所領を安堵されました。

小早川秀秋が布陣した松尾山。大谷吉継の墓から望む

小早川秀秋が布陣した松尾山。大谷吉継の墓から望む

大坂の陣には出陣せず、表舞台から退く

慶長14年(1609)、脇坂安治は5万3500石を与えられ、伊予大洲藩(愛媛県大洲市)に転封。大津(洲)城を居城とし、近世的封権制度を形付けたと考えられています。

また、大洲城の天守は洲本城から移築されたという説があります。大洲城と洲本城の大天守、小天守の配置が同じで、本丸石垣の大きさが同じである点などから指摘されています。水軍を率いる脇坂安治であっても、当時の技術力で天守の移動が可能であったのかは今のところはっきりしていません。古文書には、もともと「大津」とよばれていた地を、脇坂安治が「大洲」に読み替えたという記述は残っています。

その後、大坂の陣へは出陣せず、次男・脇坂安元(やすもと)が代わりに出陣し武功を立てます。元和元年(1615)には脇坂安元に家督を譲って隠居。表舞台から退き、隠居先の京都にて寛永3年 (1626)73歳で亡くなったとされます。

元和3年(1617)、脇坂安元は飯田(長野県飯田市)に移り、城下町を取り囲む惣構えを完成させたといわれています。また、寛文12年(1672)には、脇坂安元の養子・脇坂安政(やすまさ)が龍野城(兵庫県たつの市)に移り、5万石余の居城としての現在の遺構に至ります。その後、江戸時代を通じて脇坂家の時代が続くのです。

肱(ひじ)川を天然の水堀として築かれた大洲城。四重四階の天守は、平成16年(2004)に再建された

肱(ひじ)川を天然の水堀として築かれた大洲城。四重四階の天守は、平成16年(2004)に再建された

龍野城では、本丸御殿や白亜の城壁、多聞櫓などが復元されている

龍野城では、本丸御殿や白亜の城壁、多聞櫓などが復元されている

脇坂安治は、関ヶ原の戦いで徳川軍に寝返ったためにマイナスの印象をもたれることもあります。しかし、明智光秀を補佐した黒井城攻めでは、豪胆な働きで敵の赤井直正から賞賛。小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉からの書状に信頼関係が伝わり、戦後には洲本城へ移り、豊臣水軍を作りあげました。そして徳川家康に従うと、伊予大洲城を整備しました。

豪勇さと優れた先見力を兼ね揃えた人物だったからこそ、領主を変えながらも功績を残し続けたのではないでしょうか。賤ヶ岳七本槍として名を馳せた後に、水軍という得意分野を磨いた点も重宝されたのかも知れません。

※歴史的事実は、各自治体が発信している情報(公式ホームページ等)を参照しています。

写真・文/藪内成基
奈良県出身。国内・海外で年間100以上の城を訪ね、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。主に「城びと」(東北新社)へ記事を寄稿。異業種とコラボし、城を楽しむ体験プログラムを実施している。

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