関ヶ原の戦いでは徳川家康の勝利に貢献
慶長3年(1598)に豊臣秀吉が亡くなると、今度は徳川家康との距離を縮めていきます。そして、元和5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、先鋒の福島正則隊に続いて東軍左翼縦隊の第二陣として進軍。午前に開戦すると、不破関跡付近まで進撃し、西軍主力の大谷吉継の隊に属していた平塚為広と交戦。午後には東軍に寝返った小早川秀秋隊と共に、大谷隊を破る戦果をあげます。
関ヶ原の戦いでの戦功により、藤堂高虎は伊予半国20万石を領します。瀬戸内海に面した海岸に、今治城(愛媛県今治市)を築城。慶長7年(1602)に築城を始め、慶長13年(1608)頃に完成したとされています。海水を引いた水堀や、城内の港として国内最大級の船入を備えた日本屈指の海城。明治維新後に建造物のほとんどが取り壊されたものの、昭和55年(1980)以降、主郭部跡に天守をはじめとする櫓、門などの再建が進み、現在に至っています。
立場を明確にして勝ち取った徳川幕府の信頼
関ヶ原の戦い以降、徳川幕府における役割はますます重要になっていきます。今治城が完成した慶長13年(1608)、徳川家康から伊勢国の一部および伊賀国一円の領主に命じられます。初代津藩主となり、最終的には約32万石の大名に上り詰めます。現在の津城跡(三重県津市)は、藤堂高虎が慶長16年(1611)に大改修したもの。明治維新後、建物はすべて取り壊され、外堀のすべてと内掘の大半が埋め立てられ、本丸と西の丸の石垣と曲輪が残っています。以後、津藩は明治維新まで改易されることなく、約260年間続きました。
さらに江戸幕府による天下普請により、聚楽第、二条城、伏見城(京都府京都市)、丹波亀山城(京都府亀岡市)、篠山城(兵庫県丹波篠山市)、大坂城(大阪府大阪市)、膳所城(滋賀県大津市)など、数々の築城を手掛けています。築城のみならず、二代将軍・徳川秀忠の末娘である和子を天皇家に嫁がせるなど幕府の体制整備に尽力し、粉骨砕身の日々を過ごします。享年75歳。寛永7年(1630)10月5日、江戸の藤堂藩邸で生涯を終えました。
外様大名でありながら、徳川幕府を支える重鎮として信頼を勝ち取った藤堂高虎。その性格を表すエピソードを最後にご紹介します。豊臣恩顧の大名にも関わらず、豊臣秀吉が亡くなるとすぐに徳川家康に近づいたとする批判に対し、「自身の立場を明確にできない者こそ、いざという時に頼りにならない」と答えたとされます。賛否両論ありますが、藤堂高虎は裏切って主君を変えるようなことはせず、その時々に主君と定めた人物には常に忠義を捧げ、その結果として、天下人である豊臣秀吉や徳川家康に重用されたのでした。
※歴史的事実は、各自治体が発信している情報(公式ホームページ等)を参照しています。
写真・文/藪内成基
奈良県出身。国内・海外で年間100以上の城を訪ね、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。主に「城びと」(東北新社)へ記事を寄稿。異業種とコラボし、城を楽しむ体験プログラムを実施している。