関ヶ原の戦いでは東軍につき石田三成を捕える
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの際には東軍として主力戦に参加。西軍を率いる石田三成を捕縛するという、後世に伝えられる手柄を立てます。もともと三成とは親交があったとされ、昔の関係を重んじて、田中吉政は捕らえた三成のことを厚遇。三成も、「自分を捕らえたのが吉政でよかった」といった言葉を残したという逸話が残ります。
関ヶ原の戦いでの戦功が認められ、家康から筑後(現在の福岡県南部)32万5000石を拝領。初代筑後国主の大名として、柳川城を本拠地に領国経営にあたることになりました。
柳川で迎えた“水運を生かした城下町”の集大成
柳川に移った田中吉政は、柳川城の大規模修築や久留米・柳川往還の整備、干拓堤防の築堤など基盤整備事業に大きな功績を残しました。
柳川といえば、現在も柳川藩主立花家の邸宅「御花(おはな)」が観光地としても結婚式場としても知られるように、立花家の時代が長く続きました。戦国時代末期の天正15年(1587)、豊臣秀吉の信頼が厚かった立花宗茂が城主となり、柳川城の改修に着手するも、まもなく朝鮮出兵へ。さらに関ヶ原の戦いでは西軍に味方したため、敗戦後に改易。宗茂の代わりに田中吉政が柳川城に入り、本格的な改修を開始することになったのです。結果として、柳川藩主としての立花家の空白期間を田中吉政が担い、しかも堀割を生かした全国でも珍しい城下町を築いたのです。
同じ筑後国内では、「重要伝統的建造物群保存地区(文化庁指定)」の町並みが、福岡県八女市に残ります。町の中心であった福島城(福岡県八女市)は、矢部川から水を引き入れ、三重の堀をめぐらせて城下町を形成。さらに、有明海までの運河を整備し、船運を利用した流通経済を発展させました。米や和紙、八女茶、イグサなどの伝統産業を生み出したのです。
柳川に残る、田中吉政の菩提寺・眞勝寺が人柄や功績を伝えます。立花宗茂が復帰した後も城下町に残され、立花家の菩提寺・福厳寺とともに、新旧城主の菩提寺が城下町に共存している珍しい例です。
柳川の整備に貢献した田中吉政でしたが、残念ながら跡を継いだ田中忠政が元和6年(1620)に没すると無嗣断絶、改易となり、わずか2代で柳川から去ってしまいます。400年以上の月日が流れた現在も、田中吉政が整備した城下町を潤す水は、変わらずに流れ続けています。
※歴史的事実は、各自治体が発信している情報(公式ホームページ等)を参照しています。
写真・文/藪内成基
奈良県出身。国内・海外で年間100以上の城を訪ね、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。主に「城びと」(東北新社)へ記事を寄稿。異業種とコラボし、城を楽しむ体験プログラムを実施している。