絶対恭順をつらぬく
大坂城からの逃亡は、慶喜の声望を一気に落とした。同時代はもちろんだが、歴史的にも彼が人気を博さなかった第一の理由がこれである。総大将みずからの敵前逃亡であるから無理もないが、何しろ勤皇精神を叩き込まれて成長した人物。父・斉昭からは「幕府に背くことはあっても、朝廷に弓を引いてはならない」と教えられてきたというから、慶喜としては朝敵になることが何より恐ろしかったのではなかろうか。
絶対恭順の姿勢は江戸へ戻ったのちも変わらず、2月に江戸城を出てからはひたすら謹慎をつらぬいた。幕臣・勝海舟と西郷の談判で江戸は戦火をまぬかれ、徳川家も駿府(静岡県)70万石の大名として存続をゆるされる。慶喜自身は御三卿のひとつ田安家の亀之助(のち家達)へ家督をゆずり、40年以上に渡るながい余生を送ることとなった。亡くなったのは大正に入ってからだが、晩年には公爵にまで叙せられ、名誉回復も成されている。
慶喜の後半生は意外に面白く、狩猟や弓、乗馬に刺繍、囲碁など多彩な趣味に没頭して日々を過ごした。とくに写真への傾倒が知られており、彼の撮影による写真集まで刊行されているほど。好奇心が旺盛だったことは間違いなく、晩年に仕えた女中・小島糸の回想によると、玄米パンに関心を持ち、食べもしないのにしばしば買いに行かせたという。また、飯盒で米を炊くのに熱中したが、アルミニウムが人体に有害ではないかと疑い、銀製のものをこしらえさせた。
この話にはつづきがある。飯盒の話は司馬遼太郎「最後の将軍」にも採られたが、おそらくこれを読んだのだろう、前述の小島糸はその晩年(1974年)に、「司馬遼太郎先生がお書きの銀の飯盒なんかございませんでした」と述べている。筆者としてはどちらでも構わないのだが、歴史上の人物たる慶喜に仕えた女性が、われわれにとっていまだ同時代作家のイメージがつよい司馬の作品を読み、私見を述べているという構図がどうにも興深く感じられたので、あえて記しておいた。
徳川慶喜の生涯をかえりみて浮かぶのは、複雑怪奇ということばである。その行動はしばしば矛盾に満ち、本心を窺い知ることはきわめて困難。作家泣かせといってもいい。くだんの司馬遼太郎も、当初は中編1本で慶喜を描くつもりだったのが、結局3本分をついやしてようやく完結させた。それでいて「書き足りなかった悔恨がかすかにのこっている」という。むろん大先達たる司馬には及ぶべくもないが、筆者には、いまその心もちが分かるような気がする。
前述の「徳川慶喜公伝」や談話録である「昔夢会筆記」など、史料は十分すぎるほどそろっている。慶喜自身の言も豊富に残っているが、鵜呑みにするわけにいかないことは言うまでもない。彼の生涯は、いわば頂に霧のかかった巨峰のようなものだといえる。その全貌はこれからも容易につかむことはできないだろう。だからこそ、あまたの研究者や作家が徳川慶喜に挑みつづけるのではなかろうか。
文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。2021年、『高瀬庄左衛門御留書』で第165回直木賞・第34回山本周五郎賞候補。また、同作で第9回野村胡堂文学賞・第15回舟橋聖一文学賞・第11回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。2022年、『黛家の兄弟』で第35回山本周五郎賞を受賞。他の著書に『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著に『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』、 『Story for you』 (いずれも講談社)がある。『逆転の戦国史「天才」ではなかった信長、「叛臣」ではなかった光秀』 (小学館)が発売中。
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