小説家・夢枕獏による神話のような幻想世界が、画家・飯野和好の力強い絵によって、新作絵本『ぐん太』で表現されました。真の強さとは何か。やさしさとは何か。人のために生きることとは。長年、『ぐん太』の世界をイメージし続けていたという著者に物語が生まれるまでの話をうかがいました。

写真提供:夢枕獏事務所

■夜なき石に出会ったのは高校生のころ

『ぐん太』は、夜なき石をモチーフにした物語です。夜なき石と呼ばれる石は、実は全国各地にあるのですが、私が高校時代を過ごした丹沢(神奈川県足柄上郡)にもありました。高校時代、先輩にその石のことを教えてもらって以来、いつか夜なき石をテーマに小説を書きたいと思ってきました。

『ぐん太』の表紙。岩肌の特殊紙に印刷された波紋は、夜なき石のなき声を表している。

実際に『ぐん太』を書いたのは今からちょうど10年前。東日本大震災が起こった2011年のことです。ずっと心の中にあった『ぐん太』を形にしてみようと手が動いたのは、やはり何かの影響を受けたのかもしれません。当時、私の新聞連載に挿絵を書いてくれていたのが飯野和好さんで、その絵が何ともいえずすばらしかったので、飯野さんに『ぐん太』を描いて欲しいなあと思って原稿を預け、気がつけば10年間経っていました。

■絵本は気持ちに真っ直ぐに書ける

実は、友人から影響を受けたのですが、同じころもうひとつアイデアがありました。チェルノブイリの原発事故の跡を想像していただければわかりやすいと思いますが、あれは現場を石で固めてしまったんですね。それをモチーフにして「石棺」という能のような物語を書こうとも考えていました。

この絵本の物語は、それより前から頭の中にあったもので、「石棺」とはまた別に、自然と絵本として出来上がっていきました。ここ10年くらいは2年に1作くらいのペースで絵本を手掛けています。小説だと、私の場合10年、20年かけて書きあげるものが多いのですが、絵本の場合には実際に手が動いている時間は短い。ほぼ、一気に書きあげます。それがゆえに、自分の思いがダイレクトに散りばめられているように感じます。理屈を意図的に埋め込むのではなく、物語のあちこちに勝手に紛れ込んでいる、そんな感じでしょうか。

物語にはカオスが必要です。理路整然と世の中に向けて何かを問いたいのであれば論文を書けばいいわけで、物語が論文と違うのは、無意識のカオスがあるかないか。そのカオスのどこかに、読者にシンクロする点があれば、作者としてはうれしい限りです。物語の本体はそのカオスにあるんだと思います。

■今、形になったのは必然かもしれない

10年間も寝かせておいたものが、今かたちになったのは運命のようなものかもしれません。私自身は「書きたい」と思ったものを書いているだけなので、社会情勢に作品を当てはめて書くということはしていません。けれど、津波によって動き出した『ぐん太』が、新型コロナウイルスという脅威に喘ぐ今かたちになったことには、不思議な気持ちがします。ある意味必然だったのかもしれません。

私は作品を作るとき、神に捧げる供物として書いているようなところがあるので、この物語も見えない力によって導かれたことなのかもしれません。作品を世に出すと、結果として、多くの人に読まれたり、そうでなかったり、偏った人々に読まれたり、いろいろなことがありますが、生み出す側の私としてはサービス業であるという自覚は持っているのですが、特定の誰に向けて書くといったことはなく、どこかにおわす神に捧げて恥ずかしくないものかどうか、という観点があるように感じています。

■強さは、悲しみと年月によって得られるもの

ぐん太は、強くなろうと努力を重ねます。それはすばらしいことなのですが、生きるということは、努力や自分の力ではどうにもならないことと向き合い続けることでもあります。子どものころであれば、大人だったり、社会のルールだったりするでしょうし、大人になれば、人の心だったり、病だったり、死だったり…。今、世界を苦しめている新しい感染症もそのひとつです。そういったときに世界にたちあらわれてくるのはぐん太のような存在だと思うのです。

作品の中のぐん太は、力強い。

長い長い歴史の中にはポツンポツンと、命をかけて人のために生きた人が登場します。それは、宗教家であったり、科学者であったり、哲学者であったり、さまざまですね。具体的にいえば、仏陀や、イエス、空海や宮沢賢治、そんな人たちが思い浮かびますが、ぐん太はその象徴です。

また、作中でぐん太は年老いていきます。悲しみを知ること、人にはどんなに努力してもとどかないものがあることを知ること、そんなものを経ていかないと「人のために生きよう」という気持ちは出てこないんじゃないでしょうか。そんな気持ちもぐん太には自然に出てしまいました。

今年1月、私はちょうど70歳になりました。作家という肩書を得てからは40数年ほどでしょうか。作家という生き物は特にそうなのかもしれませんが、恨み辛みみたいなもの、いわゆる夾雑物(きょうざつぶつ)を抱えて生きていて、それを作品に落とし込んでいくわけですね。ですから、作品を生み出すたびにひとつずつ、その澱(おり)がなくなっていく感覚がある。そうして40年以上生きてきて、出てきたのがこの『ぐん太』だったのです。

私は、「自分のことがいちばん大事だ」と自覚している人間です。人のために、は2番目。若いときなんかは、本当にそうだった。けれど、この年になると、なぜか素直に思うんですよね、「人のために生きたい」って。自分でも不思議ですが、本当にそう思うんです。

もし、私と同世代の人が『ぐん太』を手に取ってくれたとしたら、どんなふうに感じるのでしょうか。とても興味がありますね。

■いくつになっても全力疾走はできる。山を登ろう

私にはまだまだ書きたいことがあります。これはもう煩悩ですね。たぶん、もう一度生まれ変わっても時間が足りないくらいアイデアが山のようにあります。

歳をとって、脳の筋力が落ちてきて、たとえばアスリートでいうと、100メートルを10秒で走ることはできなくなります。でも、スピードが違うだけで、全力疾走はいくつになってもできるんですね。

人生はよく登山にたとえられます。山頂に菩薩がいると思って登り終えても、またむこうに山があって、またそちらの山を目指して登っていく。その連続ですね。そうしているうちに力尽きて、誰もがどこかで、つまり途上で死ぬのです。いつかくるその日まで、自分の仕事をするしかない。できれば、たとえ偶然でもその行為が誰かのため菩薩行になっていれば嬉しいですね。70歳を迎えて、今、そんなことを思うようになりました。

『ぐん太』
文:夢枕獏 絵:飯野和好 小学館

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<あらすじ>
夜な夜な泣き声をあげる「夜なき石」。その石のせいで土地は痩せ、草木はおろか、動物も寄り付きません。これまで何人もが持ち上げようとしては持ち上げられなかったその石を動かそうと立ち上がるのが、ぐん太です。

ぐん太は、毎日毎日、力持ちになるべく修行をしますが、それでも石は持ち上がりません。そうしているうちに月日は流れ、ぐん太は歳をとってひとりぼっちになってしまいます。

石を持ち上げられないまま、ひとりぼっちになってしまったぐん太は、ある日、うずくまってじっと石を眺めます。どうしようもない気持ちがぐん太の心を突き上げ、涙が流れたそのとき… 。

取材・文/清塚あきこ(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com
Facebook:https://www.facebook.com/kyotomedialine/

 

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